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・「美術館・ギャラリーの行き方&Links」
All text and Copyright 98-99 Nobuyuki Ito.Created by Atsushi Ito.


101/1/12 (金)


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「柳幸典−あきつしま」(広島市現代美術館・広島)
〒732‐0815 広島市南区比治山公園1−1
TEL 082−264−1121
JR山陽新幹線&山陽線&芸備線&可部線広島駅より広島電鉄(市内電車)5番線(比治山電車)に乗り“比治山下”で下車徒歩7分。
広島駅南口出てすぐの比治山電車乗り場から市電に乗って“比治山下”で下車し、電車進行方向左側へ横断歩道を渡りそのまま坂道を暫く登り、現代美術館の看板を頼りに左に曲がって階段を上る。

<国とは、日本とは、そして戦争とは…−国家の意義を問い掛ける柳幸典>
 美術館の壁に無数に掛けられたアクリルケースに入った着色した砂で出来た各国の国旗が透明なパイプで繋がれ、それがアリによって少し混ざり合ったりしながら崩されて行く“アントファーム”。
 働きアリが一生懸命働く過程で無意識に国家の象徴である国旗を崩壊させてゆくこの作品は、一生懸命に生きる人々が国を越えて行き来する中で無意識に国家を壊れさせて行く姿を思わせ、確立された国民国家というものの近代に於ける思想の人為性を浮き彫りにするのみならず、急速に進む国際的な人・物・金の流れが国家像を大きく変貌させつつある現代社会の国家と人種の問題をも想起させる…という楽しい中にも極めて社会批評性に富んだもの。
 人工的なモザイク国家として成立したアメリカでの滞在で国家とは何かを否応無しに意識させられる機会の多かった柳幸典が、アメリカ滞在中にアリ観察用の科学教材を用いてアメリカ国旗で最初の作品(これも今回出品されている)を作ったことに始まるこの“アントファーム”シリーズは、国旗に象徴される国家意識を根底的に問い直すという柳幸典の作品の一つの象徴であり、その後の展開の大きな礎になったといって過言ではないだろう。
 そうした国家の象徴としての国旗という要素をベースにした作品としては、他にも柳は自分自身が生まれ育った国日本の日の丸をモチーフに日本という国のあり様を考えさせる作品もいくつか製作している。
 その内の代表的な作品の一つ“ヒノマル・イルミネーション”で、柳は日の丸の形に作られたネオン管が明滅し、日の丸になったり軍艦などに使われた朝日を模った旭日旗になったりする作品で、そこに西洋列強から独立を守る国家としてスタートした日本を象徴する日の丸が旭日旗を掲げる軍隊に乗っ取られて軍国化していった様を思い起こさせる一方で、かつてのパチンコ屋のネオンを思わせるキッチュな姿の中に、厳めしい雄姿を誇りながらも壊滅的な戦争に突入して行った日本と日本軍のキッチュで哀れな姿をも思い起こさせる近代日本の国旗の哀しみをあらわす作品である。
もう一つは、部屋の角の床に近い2面の壁に鏡を張って、そこに万歳するウルトラマンの像を鏡に向けて円の4分の一の形に並べて立たせることで、まるで全体が日の丸の様に見える“バンザイコーナー”は、みんなが万歳しているから合わせているつもりで、実は鏡に写った自分達自身を見て万歳している…という世間に合わせようとする日本人の性格が、第二次大戦に突入して行ったり、まわりがサービス残業して頑張っているからといって過労死してしまうまで働き過ぎてしまうことに繋がってしまったりする姿を思い起こさせずには置かない作品である。
そう、この様な二つの日の丸作品を通して柳は、司馬遼太郎が“この国のかたち”の中で問い続けた明治以降の日本の社会の風潮を含む国のあり様、即ち、何故ここまで周りに流されて破滅が予想される方向へ突き進んでしまう様な社会システムの国になってしまったのか…という近代日本の社会が根本的に抱え込む奇妙な世間意識の問題を問い掛けようとしているのだ。
こうした柳の日本という国の形への問い掛けは、否応無しに太平洋戦争とその戦後を象徴する日本国憲法へと向かい、そして生まれた作品が日本国憲法第9条の条文を作品化した“アーティクル9”と太平洋に沈む軍艦をモチーフにした近年の新作“パシフィック”シリーズである。
戦後アメリカを中心とする占領軍の管轄下に置かれ、アメリカの指導の下憲法の全面的な改定を行って成立した日本国憲法。
国家の根底を規定する憲法をアメリカの指導下で決められながらも、多くの日本人によって強く支持されているこの憲法を象徴する第9条が、バラバラにぶった切りられて細切れ状にネオン管で作られたこの条文が打ち捨てられる様に地べたに置かれながらも輝き続け、その脇に英語の原文と日本語の条文が壁に掲げられているこのインスタレーションを眺めていると、太平洋戦争への強烈な反動として生まれたこの条文の数奇な運命に象徴される戦後日本というものに思いを馳せてしまう。
何故なら、戦争で多くの家族・知人・友人を失った大半の日本人にとって、反戦思想はアメリカによって押し付けられて生まれたものというより、むしろ自然と湧き上がった環状であろうし、それを国家の基本理念に据えたこの憲法の存在は、原案が日本人の手に拠る拠らないに関係なく支持しているのであり、米国による押し付けであることに由来する反発は少数に留まるという成立過程を経て、その後その起案者というべき米国の指導の下今度は自衛隊の創設に象徴される骨抜き化が進み、実質的な改憲に到ったが、これについても国民の多数派は現在は支持している…という数奇な運命を辿り続けたこの憲法は、まさにこのインスタレーション同様にバラバラに切刻まれてその実質が打ち捨てられながらも、理念としては輝きを保ち続け、守り続けられている姿を彷彿とさせるからである。
そして、そこに様々な労働基準法など様々な分野で理想的な法律を作りながらも実質的に骨抜きにされた数多くの法律を持つ戦後日本の姿が象徴的に現れている様に思うのは私だけではあるまい。
これに対して、フィリピン沖などに沈む太平洋戦争時の軍艦を潜水して調査し、その映像をビデオインスタレーションの形で壁に照射する一方で、プラモデルを見て来た本物に合わせて修正しながら拡大した(といっても本物の軍艦から見れば縮小された)軍艦のモデルを鉄で作り、プラモデルのキット状にして展示したり、その部品を緑がかった半透明な青色のプラスチックの中に封じ込め、海底に沈む軍艦をイメージさせるブロックを難点も作って並べたりした“パシフィック”シリーズは、自然豊かな南国の海の底に眠る戦争の痕跡を発掘する様に作品化したインスタレーションである。
このインスタレーションシリーズで柳は、子供の頃に遊んだ軍艦のプラモデルという自分達にとって身近なモチーフを用いることで、自分達が生まれる以前の太平洋戦争を自分達の側に引き寄せると共に、そうしたものと実際に沈んでいるものの違いを丁寧に修正することで現実との乖離を表現したり、今尚異国の沖合いに放置され続けている現実に戦争の真の原因をきっちり突き詰めずに放置したまま経済復興に向かってしまった日本の戦後処理を思い起こさせたり、貝類等の附着により覆い隠されて自然に戻りつつある姿に時と共に薄れ行く戦争の記憶を思い起こさせたる等実に多様な太平洋戦争への思いを想起させる作品作りに成功していると言って良いだろう。
また、この他にもギラギラ輝く派手な電飾の奥に宙吊りにされた光り輝く電飾の円マーク(¥)が、天井と床に仕込まれた円形の鏡に映って無数に延々と続くかの様に見えるインスタレーションで、ひたすら金=経済的な豊かさを追い求めて社会全体をお金一色に変えてしまった“経済大国日本”への皮肉を込める等日本というくにのあり様への強い関心を伺わせる社会的な作品が多いのが柳の特徴だろう。
しかしこうした社会的な関心は“アントファーム”に代表される様に柳の母国である日本のみに向かっているのではなく、自身がかつて滞在していたことのあるアメリカや近代国家のあり様そのものに対しても向けられている様に思われる。
例えば、美術館の入り口の野外に設置されたアメリカ国旗をモチーフにした赤と白に塗られた大きな円形のかごの外周部という道で車を走らせて回転させ続ける彫刻は、自動車=モータリゼーションに代表されるアメリカ、ひたすら前へ走り続けることを強いられる過剰な競争社会としてのアメリカ…に代表される20世紀の世界の夢としてのアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを表現し、アメリカという国の過剰な物欲と進歩主義の行過ぎた社会の問題を浮き彫りにさせており、日本に向けるのと同様の社会への問題提起はアメリカに対しても同様に向けられているのは間違いないだろう。
このことは大物マフィアをかつて収容していた監獄の島であると同時に、刑務所閉鎖後に合衆国の成立過程で排除されて来たネイティブ・アメリカン=インディアン達が、政府に権利回復を求める運動の一環として“この島もかつて自分達の土地だった”というキャッチフレーズで占拠したことで知られるアルカトラス島で行われた展覧会の際に製作した一連の作品にも共通している。
この展覧会で柳は割れた窓ガラスの破片を集めてアメリカ合衆国の地図の上に載せてアメリカを模った作品で、武力で原住民を排除して開拓し、今尚銃を多くの国民が自衛の為と称して持ち続ける暴力に彩られたアメリカ、様々な移民達のモザイク・独立性の強い50州のモザイクとしてのアメリカを表現したり、囚人達が使っていた毛布をモチーフにそのサイズの毛布にJ・K・ケネディが大統領就任演説で述べた名台詞“国家が何をしてくれるのかではなく、国家のために何が出来るのかを問わなければならない”をプリントし、国家権力装置としての刑務所という組織の性質を浮び上がらせると同時に、人工的に引かれたライン=国境というものでその中に居る者を囲い込んで国民とし、それを管理し使役する存在としての国家というものが一面で刑務所的な構造を持つことすら浮び上がらせたり、逆にあくまで自主的な集合体として成立した人工国家アメリカというものが本質的に持つ自発的ボランティア精神に基づく国家としての側面を想起させたりする等アメリカという国家の特徴から、近代国家というもの本質に至るまで幅広い問題を定義させる作品作りをしており、柳幸典の国というものへの極めて幅広い認識を思い浮かばせる。
この様にこの展覧会は、柳幸典は“くにのかたち”への深く幅広い洞察を含んだ社会性の強い作品作りを今日までの主要な作品で振り返ることで、私達に自分達の社会のあり様への哲学的洞察を可能にする社会性に富んだ作品作りに優れた美術家であることが強く印象付けられる見事な半回顧展と言って過言ではないだろう。
そして、それが東京の美術館ではなく、ここ広島で開かれた意味も…近代日本の“くに”の活動に伴う犠牲の極致としての原爆被爆という歴史的なものを抱え込んだ町だけに、実に意義深く、適切な様に感じられた。
尚、この展覧会の会期は…神話に基いて政府が制定した国家創立の記念日“建国記念日”まで開催される。
このこともまた…“くに”を問い直す柳に似つかわしい設定と言えるだろう。
一体このくには何なのかを問い掛けているのだから…
(2月12日(祝・建国記念日)まで)

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「広瀬智央‐2001」(広島市現代美術館・広島)
〒732‐0815 広島市南区比治山公園1−1
TEL 082−264−1121
JR山陽新幹線&山陽線&芸備線&可部線広島駅より広島電鉄(市内電車)5番線(比治山電車)に乗り“比治山下”で下車徒歩7分。
広島駅南口出てすぐの比治山電車乗り場から市電に乗って“比治山下”で下車し、電車進行方向左側へ横断歩道を渡りそのまま坂道を暫く登り、現代美術館の看板を頼りに左に曲がって階段を上る。

<視点をもてあそぶ楽しさ…見ることのベースにあるものは…>
 美術館地下に降り、廊下から中を覗くと展示室の壁には何一つ作品らしきものは無く、床にも奥の方にテレビが3台置かれ、そこに殆ど静止した画像が流れているだけ…と一瞬思ってしまうが、中に入って天井の方を眺めるとまるで様々な明るいトーンの各1色で塗られた直線で出来た幾何学的な形のオブジェが、銀色に輝くパイプで出来た構造体に支えられたガラス面の上に散在しているのが見える。
 黒っぽい色に塗られた天井や壁が背景として沈み込み、その上に単純な幾何学的形態でしかもシンプルなカラーに塗られたオブジェがガラス面という平面上に乗っかっているせいか、現実に目の前(目の上といったほうが正確だが…)にある立体的な物体であるにも拘らずリアリティに欠け、そのまばらに置かれたイメージと相俟ってまるでパソコンのスクリーンセーバーの画面が多数並んで天井に映し出されているかの様に思えてくる。
 しかし、部屋の奥の方にあるモニターを見ていると…頭上にあるのと同じと思われる幾何学的なカラフルなオブジェが密集し、まるで都市を描いたCGを見ている様な映像が流れているのが目に入る。
 しかも、モニターの近くまで入って行きながらモニターの映像を見ていると、その内の一台には何と自分が映っているのが判る。
 そう、そこに流れている映像はどうやら背後にある天井近くからこの天井近くに吊るされた作品を写した画像がそのまま流されているのだ。
 だとすると…この下から眺めるとポツンポツンと淋しく点在しているかに見える幾何学的なオブジェが、見る角度を変えるだけでこんなに密集してあたかも都市の様に見えるのか…そんな視点のマジックを目の当たりにさせる仕掛けも施されているのだ。
 色彩と形態が持つ視覚のマジックに加えて見る角度の違いがもたらす視覚のマジックで、私たちが見るという行為をする上で暗黙の了解としている事項が翻弄して私たちの視点を宙吊りにし、物理的・精神的視点の危うさを楽しみながら再考させてくれる…そんな魅力に満ちた広瀬智央のインスタレーションは、ビジュアルアートとしてのイリュージョンの世界そのもの。
 それだけに、日常生活で固定化しがちな視点を忘れて、視覚を揺るがしてみる楽しさを味わうには最適な作品だろう。
(2001年1月14日(日)まで)

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「ケリー・スミッツ」(CAS・大阪・天満橋)
〒540−0038 大阪市中央区内淡路町2−1−7都住創内淡路602
Phone 06.6941.3237 Fax 06.6945.4709 E-mail: master@cup.com
地下鉄谷町線&京阪電鉄本線天満橋駅より徒歩7分。
京阪天満橋駅(叉は、谷町線天満橋駅4番出口)から谷町筋を南へ行き、リブロ(書店)を過ぎて一つ先の交差点を右に入って暫く行った右手の少し変わったマンションの6階。
CASホームページ

<舐めることのイメージ‐正気と狂気の狭間で…>
 ただひたすらに舐め続ける…としか言い様が無い位ただひたすら執拗なまでに徹底して窓枠などの部屋の片隅を舐め続ける女の姿を写した映像が、ひたすら流れ続ける。
 そんなケリー・スミッツのビデオインスタレーションは、ここCASで同じ様にひたすら舐める行為を作品化したものと言っても澤登恭子のLPレコードに垂らされた蜂蜜を舐める行為の持つエロティックさや食べる仕草を思わせる様な日常性の要素を全く欠き、一種狂的なおぞましさすら感じるほど非現実的な印象を受ける。
 何しろ私達が普通舐める行為をするのは、食べる時と性的な行為に耽る時と傷口を舐める時位のものなのに、ケリーの作品からはそうした要素が全く感じられないどころか、本来舐めてはいけない汚いものとされていて、SM的な倒錯した世界でしか考えられない部屋の片隅という埃の溜まり易い部分を彼女は舐めてしまう行為をひたすら行っているのだから…
 そんな普通自ら進んでやることが想像できない彼女の行為に、私たち見る者はどうしようもなく戸惑い、言い知れない恐怖感のようなものを感じて、おぞましいと思ってしまうのだ…一体何故彼女は部屋の片隅を舐め続けるのだろう…と。
 そうそれ位誰もが日常生活の中でしている行為も、一歩すらした場所で行えばイメージは一変し、全く違った表情を見せるものなのだ。
 それだけに私たちはケリー・スミッツの作品を見ると、正気と狂気の差異の小ささを突付けられた様に感じ、強く衝撃を受けるのだろう。
紙一重で自分が狂気の世界に落ちて行きそうに思えて…
(12月22日(金)まで)

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「中山ダイスケ」(コダマギャラリー・大阪・本町)
〒541-0051 大阪市中央区備後町4−2−10
TEL 06-4707-8873
地下鉄御堂筋線&中央線&四つ橋線本町駅2番出口より徒歩2分、又は、京阪電鉄本線&地下鉄御堂筋線淀屋橋駅より徒歩10分。
本町駅2番出口より北(梅田寄り)へ行った最初の角を左折して暫く行ったJOMOのスタンドの角を右折して少し行った右手の建物の2階。
コダマギャラリーホームページ

<闘うことはコミュニケーション!?―コミュニケーションに潜む攻撃性と優しさを表現する中山ダイスケ>
 前回の丸亀市猪熊源一郎美術館の時に発表されたわざと暈かしてボクシングの写真をキャンバスにプリントした“フル・コンタクト”と呼ばれるシリーズを中心にした中山ダイスケの関西での初個展。
 丸亀に比べて天井こそ低いものの、壁の色がキャンバスの白い部分と極めてマッチしたコダマのスペースは、丸亀とは違った意味で気持ち良く作品が見られる空間として機能している。
 このことはこのわざと暈かすことでボクサーを特定させることを避け一般化を図り、更にはボクシングという行為自体をも格闘技というより広義なものへ、そして更には人間同士の接触というコミュニケーションへと意味性の拡張を図るこのシリーズにとっては、特に効果的に感じられる。
 何しろ、壁の色とキャンバスの色がほぼ一致することでボクサーの周囲の余白は空間全体へと拡張され、まるでモヤモヤした夢の中で絡み合う二人の姿を見ている様なイメージを作り上げられたその展示は、単なるペインティングの展示という雰囲気を超え、一種のインスタレーションへと昇華されている様に見えるからである。
 その結果私達はそこに直接的な格闘技を見る興奮ではなく、格闘技自体が持つコミュニケーション性を感じる一方で、逆にしばしば相手を傷付け合ってしまうコミュニケーションの格闘技性という逆説を感じ、人と人の間の関係性への中山の鋭い観察眼を見取ることになるのである。
 そうしたコミュニケーションと傷付け合う戦いの複雑な関係は、相手を殴り倒す道具のこん棒をモチーフにしたり、二人の間を繋ぐ甲冑で恋人同士や親子のコミュニケーションを表現したり、狩猟用の罠に水玉模様をペイントして可愛らしさの中の危険さを表現したりして来た中山ダイスケの作品に一貫するテーマと言って良いだろう。
 そう、そんなヤマアラシのジレンマに似た人格の違いから来る微妙なずれが呼び起こす傷付け合うコミュニケーションは、誰もが避けたいし、極力上手くやって行きたい…でも自分の気持ちも大切にしたい。
 そういう人間の複雑な気持ちを柔らかく包む様に、ボクサー達の戦う姿はソフトに暈かされ、周囲のキャンバスの白地部分に溶け込み、更には部屋全体を覆う柔らかな光の一部となる様にされているのだ。
まるでこの世界全体が柔らかなコミュニケーションで満たされているかの様に…
(12月16日(土)まで)

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「松井紫朗−vessels」(信濃橋画廊・大阪・本町)
〒555‐0005 大阪市西区西本町1‐3‐4 陶磁器会館地階 TEL 06‐6532‐4395
地下鉄四つ橋線&中央線&御堂筋線本町駅20番出口より徒歩1分。
本町駅20番出口を出て近畿大阪銀行と阪神高速環状線入口の間の道を進んだ最初の左斜めの角のビルの地下(中央大通から見て近畿大阪銀行駐車場の真裏のビル)。

<カラフルな色面のある現実…絵画的イリュージョンを立体化する松井紫朗の世界>
 ギャラリーの中ほどに置かれたチェストの引き出しから溢れ出し、その近くにあるホーローのたらいから何か他のものへ注ごうとしたかの様にそこの方にたまったものが外側まで溢れていたり…まるで零れ出る液体が瞬間的に止まってしまった様な印象すら受けるカラフルなシリコンゴムの滴り…が目にも鮮やかな松井紫朗のインスタレーション。
 そんな如何にも人工的なカラフルさや現実には在り得ない形態などの非現実性の一方で、どこか日常的にありそうな光景を思わせる要素を併せ持つ松井紫朗の世界は、恰も日常生活をベースに一寸非現実的な要素を盛り込んで描かれたポップで奇妙なパラレルワールドのイラストを思わせる夢の世界が現実化した様な錯覚を覚える。
 言い換えれば、松井紫朗の作品はシリコンゴムという極めて発色性が良くしなやかな素材を用いることで、本来絵画上でしか成立し得ないと思われていた塗りを思わせるカラフルでシンプルな形を立体的な現実世界に持ち込み、それによって現実世界のほうを絵画的イリュージョンの世界へと変貌させることに成功しているのである。
 だから、私たち見るものは松井の作品の中に入って行くとまるでイラストの世界に入り込んだ様な楽しさを覚えるのに違いない。
(12月20日(水)まで)

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「池上式」(キュービックギャラリー・大阪・本町)
〒541−0051 大阪市中央区備後町3−1−2アトラスビル201 TEL 06−6229−2321 E−mail cubickk@ea.mbn.or.jp 地下鉄御堂筋線&中央線&四ツ橋線本町駅より徒歩5分、又は、堺筋線&中央線堺筋本町駅より徒歩5分。
本町駅1番出口を左に行き、最初の信号(3本目の道=三休橋筋)を左折し2ブロック目の左手の煉瓦色のビル(綿業会館の向い)の2階。
キュービックギャラリーホームページ

<心身を描く…見えないものをフロッタージュする池上式>
 背中側から撮ったレントゲン写真を転写した上に絵の具を付けて指圧した指圧の跡が載った池上式ペインティング。
 “この人腰を痛めてる…重いもの持ち過ぎたか変な格好で仕事してたかだな”とか、“この人肩が凝ってる…きっと事務系の仕事か、緊張を強いられる仕事をしてたな”とか勝手な想像が膨らむ。
 この様に同じ人でも日々異なる処に凝りが出て、そこにその人の日々の生活状態や内面が凝りの場所という形で顕わになり、それを指圧の指の位置を絵の具で定着させることで誰の目にも明らかにされてしまう…そう、人々の心身の健康を表す指圧版レントゲン写真なのである。
 そんな凝りとして表れる心身の状態を指圧をフロッタージュに見立てて絵画化する…というこの作品のコンセプトは、会場内に並べられたペインティングと指圧用のベッドだけで十分に伝わり、見ていて楽しい。
にもかかわらず、この池上式ペインティングと指圧用ベッドそのものだけでは不足していると思ったのか、池上自身が指を突き出して指圧のイメージを強調しようとする大きな写真が飾られていたが、髭面の池上が白衣姿はどう見ても怪しげなお笑い風で全体のイメージまでも貶めてしまっていたのは勿体無い。
 やはり、指圧の成果としての池上式ペインティングをもっとストレートに出し、あくまでペインティングと実際にやって見せるパフォーマンスのみで構成した方がより深みある表現になったのではないだろうか?
(12月16日(土)まで)

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「直島会議X‐アートと地域:マクロとミクロの間で」(ベネッセ直島コンテンポラリーアートミュージーアム・香川・直島)
〒761‐3110 香川県香川郡直島町琴弾地 TEL 087‐892‐2030
JR宇野線宇野駅前の宇野港、または、高松港から四国汽船フェリーで直島宮之浦港にて下船、直島文化村送迎バスで約15分。
直島文化村ホームページ

<ミクロがマクロになる時‐周縁が中心を凌駕する為に…>
 世界中の人々がコーラを飲み、ハリウッド映画・漫画・アニメに嵌り、そしてテレビで世界のニュースが流れ続けるこの時代に於いては、最早地理的な距離よりも世代間等の違いによる文化的差異の方が大きいかもしれない…という位に進んだ地域間の差異の消滅は、海外のアーチストの理解を容易にして、ビエンナーレ・トリエンナーレと呼ばれる国際展を増大させ、一握りの国際的な美術家たちがF1レーサーの様に世界を転戦して廻る現代のグローバルなアートシーンの基礎であると言って良いだろう。
 そうした様々な国際展の中でも、こうした都市間の差異の消滅をある意味では象徴しているが“シティーズ・オン・ザ・ムーブ”“マニフェスタ”といった開催場所を変えながら開かれるのど自慢的(ジプシー的)移動型国際展の開催だろう。
 今回の直島会議に出席したジェローム・サンスとハンス・ウルリッヒ・オブリヒトの二人は、これらの移動型国際展を企画・監修して来たまさにそうした時代の寵児である。
 空間や組織形態を含め、従来の美術館にはラボラトリー(実験室)機能が不足していたと考えるジェローム・サンスはそうした欠点をカバーする為の拠点作りとして現在取り組んでいるラボラトリー(実験室)としてのアートセンター“パレ・ド・トーキョー”を中心のレクチャーを行ったジェローム・サンス。
 小沢剛の“なすび画廊(牛乳箱画廊)”と似たコンセプトを持つ携帯型の美術館“ナノ・ミュージアム”の中に“ナノ・ミュージーアム”が写った写真を展示し、それを美術館に展示することで、物理的に巨大化し移動もままならない普通の美術館(マクロ)と、移動の容易な携帯型の美術館を対比させた展示の例をとり、既存の美術館の持つ限界に焦点を当てたレクチャーを展開したハンス・ウルリッヒ・オブリヒト。
 異なる事例を元に話を進めた二人だが、共に均質な美術館という箱の中に留まらない新たな実験的な仕組みを求め、社会の中にある場をその都度美術の為に用い、その町自体が持つ面白さを引き出してそれを展覧会に盛り込もうとする“オフ・ミュージーアム(脱美術館)”をキーワードに活動を展開して来た…という点では一致していた。
 つまり、彼らはただ単に移動し続けて来たのではなく、常に開催地となる町固有の特質を取り込み、そこに彼らが評価する実力ある美術家たちをぶつけることで、全く新しい場が生みだし、それに触発されて新たなアートが生まれる実験場とするのがその醍醐味であるとみており、単なる何処にでもある国際的な展覧会ではなくローカルなカラーも取り込み、その場所固有の国際展として他にはない独自性を持たせるべく努力して来たことを強調しているのである。
 そこでは、グローバル化とローカリズムが決して単純な対立構造ではなく、逆にグローバルな価値を持つ為には、むしろローカルカラーから滲み出る独自性の確立が重要な要素となるのであり、故にジェロームもハンスも自分達自身がこれまで行って来たこれらの展覧会は、決して単なるグローバルなマクロな視点での国際展ではなく、グローバルとローカル、ミクロとマクロといった一見両極と思われる要素を併せ持つもの…とすることこそが面白い国際展の在り様であるとの認識で一致しているのである。
 しかし、一方ではそうした移動型の展覧会を続ける中で、そうした移動型というスタイル自体が持つ逃れられない欠点=アーカイブ(収蔵庫)を持たないことの限界を感じたジェローム・サンスは、パリのかつてパレ・ド・トーキョーと呼ばれた建物に新たなアートセンターを立ち上げるプロジェクトに取り組み始めたのとほぼ時を同じくして、ハンス・ウルリッヒ・オブリヒトが隣の建物にあるパリ市立近代美術館をその拠点とする様になる等その欠点についてもほぼ共通の認識に立ち、活動の拠点作りに取組み始めた辺りも興味深いところである。
 実験の面白さへの興奮という時代を過ぎた彼らにとっては、実験の成果として良いものが生まれればそれを残すシステムを作らなければ単なる伝説作りに終わってしまい、かつてのハプニング(パフォーマンス)の二の舞になるとの危機感が芽生え始めていることの証だろうか?
 何しろ、現状では彼等の行って来た国際展の記録はそれを記録したカタログ等でしか残されておらず、その作品の一部すら見せることすら殆ど不可能なのだから…
 そう、彼らは実験性の為の“オフ・ミュージーアム(脱美術館)”がその実験の成果を残せない足枷となってしまいつつあったのである。
 だからこそ、二人はこれまでの“オフ・ミュージーアム”の成果を踏まえつつも、ミュージーアム=博物館としての美術館が持つ保管の機能(サンスの言葉で言えばアーカイブ)を持った実験的なアートセンター作りを目指すことに落ち着いたのであろうことが、二人の話から感じられた。
 そんな彼らだけに、瀬戸内の人口3,000人の小さな島“直島”で、東京など大都市の美術館の様な数年前より定期的な展覧会を行わず、地道に恒久設置作品をコミッションワークのスタイルで収集・展示し続けて来たベネッセのプロジェクトの中でも、敷地外の古い集落本村地区に残る古民家を再生して行われている“家プロジェクト”を極めて高く評価し、これを継続的に続けるべきだという意見で一致するのは、その“オフ・ミュージーアム”への拘りと、その果てに辿り着いた場の特性(ローカル性)とアーカイブ(収蔵庫)機能=恒久設置への憧れを考えれば、ごく自然だろう。
 一方、こうした展覧会スタイル自体の特異性を持つ二人の話とは対照的に展覧会のスタイル自体はオーソドックスだったのが、三木あき子が報告した“アジア-パシフィック・トリエンナーレ(APT)”とダン・キャメロン自身がビデオでレクチャーした“ニュー・ミュージアム”の事例だろう。
 トリエンナーレという形で国際的に美術家たちを集めて大規模な展覧会を行うというスタンダードなスタイルを採りながらも、グローバルな国際展という方法論を放棄し、脱欧州の流れから“アジア太平洋”国家を目指す新たなオーストラリアらしい地域性に拘った国際展となった“アジア-パシフィック・トリエンナーレ” 。
そのことが、結果としてベネチアビエンナーレやドクメンタ等の欧米の主要な国際展では見られない作家・作品に出会える場として特徴付け、それが後発でしかも南半球でしかも人口の少ないオーストラリアというマイナスをカバーし、そのリージョナル性(地域性)の故にグローバルなアート界の話題になる国際展へと押し上げるという逆説的な展開となったと言えるこの展覧会は、まさにグローバルとローカルの微妙な綾を表す典型的な事例だろう。
 勿論こうした“アジア-パシフィック・トリエンナーレ”の構図は、福岡はアジアの玄関口だったという右翼系の市長のキャッチフレーズに則って構築されたアジア美術コレクションをベースに成立した福岡アジア美術館と福岡アジアトリエンナーレが、アジア地域という東京では取り上げられない地域に拘ることで話題性を持った…というのとほぼ同一と言って良く、グローバル化に於ける地域のアイデンティティの確立の方法として、今後も折に触れ出て来る様に思われる。
これに対して、もっとオーソドックスだったのが、ダン・キャメロンの“ニュー・ミュージアム”での活動だろう。
彼の話を聞く限り、あまり取り上げられることの少ない国際的に無名ながらも実力ある美術家を老若男女関係なく見付け出し、その作家の回顧展スタイルの個展を行ってその位置付けをする…という美術家を美術史上に位置付ける最もオーソドックスな方法で行って来たが、その選んだ対象がしばしばラテン・アメリカで長年省みられることなく制作を続けていた美術家だったり、マイノリティの美術家だったりとMOMA(ニューヨーク近代美術館)等の主要な美術館では考えられないラインで極めてレベルの高い美術家を多数選び出し続けて来た…というのが、彼のスタイルであるらしい。
このレクチャーを聞くと…やはり、世界のアートの中心地としてニューヨークのマーケットの厚みと情報発信力の強さが、ダン・キャメロンにこうした極めてオーソドックスなスタイルに疑念を挟むことなく、無名な美術家を評価・発掘し位置付ける作業に没頭し続けるだけで、情報発信力を持たせることが出来たのだろう…と思ってしまう。
それだけに、その直前に聞いたアジア-パシフィックというローカル色を前面に出して主要な国際展との差異を生み出さざるを得なかった“アジア-パシフィック・トリエンナーレ”と比較してしまい、オーソドックスに横綱相撲を展開すれば評価される中心と、その隙間を狙って違いをアピールせざるを得ない周縁の歴然とした違いを否応無しに意識させられてしまう。
そう考えると…東京以外の地方の“県立近代美術館”は東京国立近代美術館や神奈川県立近代美術館とスタイルも焦点を当てる内容も同じ金太郎飴では意味が無く、批判を覚悟でマイナーな隙間的で偏ったものに拘り続け、それが全国的いや国際的な話題性を持つ固有のものとなる様にアピールしてゆく姿勢こそが鍵だと言うことになる筈と改めて認識させられる。
そして、そういう観点から見ると、直島のベネッセが近くにある倉敷の大原美術館と同様にそうした存在感のある美術施設になって行く為には、今後も“家プロジェクト”を中心にした世界の主要な美術館とは一味違ったオリジナルなプロジェクトに拘り続けるべきだとのジェロームやハンスの共通の指摘はしっくり来る。
勿論それは既存の主要な美術館へのアンチテーゼとして、美術館という箱に留まらない美術を扱う“オフ・ミュージーアム”の一環であると同時に、美術館の本来の役割である良質な美術を残し、伝えて行くという機能を併せ持ったものとして…
(12月9日(土)・10日(日)のみ)

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「ジュリアン・オピー」(SCAI THE BATHHOUSE・東京・谷中)
〒110-0001 東京都台東区谷中6-1-23柏湯跡 TEL 03−3821−3553
E-MAIL scai@ra2.so-net.ne.jp
JR山手線&京浜東北線&常磐線&京成本線日暮里駅南口より徒歩8分。
日暮里駅南口より左に袴線橋を渡って渡り終えた所を左折し、そのまま道なりに谷中の墓地を桜並木を通り抜け、2ツ目の信号を渡った右側の角の元の銭湯。

<ポップなフラットさの中に潜む奥行き―隠し味としての遠近法>
 スカイ・ザ・バスハウスの奥の屋根まで吹き抜けになったところに描かれた大きな人の顔のウォールドローイングにしろ、壁に掛けられた車が如何にもイギリス的田舎を走り抜ける姿を描いた絵にしろ、ビルの形を白い線で表し、それをボトルの入った箱を思わせる細長い箱型のプラスチックの周囲に描いた立体作品にしろ、看板などに使われる抽象化されたシンプルなマークを思わせるキュートな図像を思わせる単純化された人の顔や車ビルなどが、フラットに描かれた作品という印象を受ける。
こう書くと、それこそ村上隆の“スーパーフラット”と称する奥行きの無い平面作品や、イラストや記号に良くありがちな如何にものっぺらぼうな絵を思い起こしてしまうのが普通だろう。
 確かに、ジュリアン・オピーの作品はそれらの作品に近い位形は徹底的に単純化が図られ、塗り方も基本的には幾つかに分割された各々の部分は極めて均一な綺麗な塗りが施されており、それらとの違いは一見ほとんどないかの様に思える。
 しかし、オピーの作品はメガネや車体の輝きや、木々や窓の大きさの違いや、眉毛や髪の毛や口などの微妙な曲がり具合等といったディテールの部分に、実は極めて明確な遠近法に基づく差異が取り込まれており、そのことが全体を見たときに遠近感を感じさせ、シンプルな中にも確実な奥行きをもたらすという効果を発揮しているのである。
 言い換えれば、こうした単なる二次現に留まらせない三次元を描き出すことへの執着の一方で、極力単純化を図る技法の融合としての遠近法を取り込んだ図像の単純化を図ったことこそが、オピーの作品にポップな明るいイメージと立体的なリアリティのある深みの両立を可能にしているのであり、他のポップ系の画家達とは異なる大きな特徴となっているのである。
 つまり、単に一見ポップな今風イラストの様なフラットな画面構成を追いかけるのではなく、しっかりとした遠近法という絵画の伝統の基礎をがっちりと守っているある意味では今時珍しい正統派の画家もと言えるである。
 こうした絵が出て来る限り、絵画はまだまだ新たな美術の可能性に満ちた表現であり続けるだろう…そう素直に思える様な絵画の魅力が味わえる展覧会です。
(12月9日(土)まで)

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「佐藤勲」(タロウナスギャラリー・東京・佐賀町)
東京都江東区佐賀町1−8−13食糧ビル2階 TEL 03−3630−7759
営団地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車徒歩8分、または、営団地下鉄東西線門前仲町駅下車徒歩12分。
水天宮前駅を降りて、そのまま隅田川大橋を渡って階段を降りて右折し、信号を過ぎて3本目の道を左折して少しいった右手の古い立派な西洋建築の2階(階段上がって右の突き当たり)。

<シンプルで精巧な色面−カラーテープが織り成す豊かな描かない絵画>
 数色の幅数ミリの細いカラーテープを決めた順番通りに並行直角が狂わぬ様にきっちりと格子状に貼り込んで行き、それに艶のある透明なコーティングを施した平面作品を作り続けてきた佐藤勲。
 そんな異常なまでに精密に作られた画面が結果としてもたらすその細かな格子状に分かれた数色の色がもたらすイリュージョンこそが、彼の作品の魅力の一つだろう。
 そんな佐藤が昨年のVOCA展以降取り組んでいる新たな傾向の作品がそうした格子状の画面の周囲の壁に単色のシンプルな色面を生み出し、その中に置かれた格子状の画面とのコントラストをもたらそうとしている作品である。
 今回は前回のVOCA展の際に展開した作品の裏側に色面を作ってその反射光が作品の周囲の壁に色を微かに付けるものと異なり、周囲の壁自体に直接彩色した一種のインスタレーション的な展開を行っているが、残念ながら今回もVOCA展の時と同様にあまり成功しているとは思えない。
 むしろ、周囲の明るいトーンのシンプルな色面が強過ぎて、真中に置かれた格子状の作品への視覚的な集中を妨げ、その作品本来の強度を削いでしまっている様な印象が強い。
 やはり、作品と周囲に塗る色面の関係を再度検討し直す必要があるのではないだろうか?
 レントゲンクンストラウムでの発表以来クオリティの高い作品作りを続けて来た佐藤勲だけに、今のところ上手く行っていないがVOCA展以降の試行錯誤の結果として従来の作品に匹敵する新たなシリーズを展開できる可能性は十分あるだけに、佐倉市立美術館を含む今後の展開を見極める必要がありそうである。
(12月22日(金)まで)

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「グレアム・トッド」(ギャラリーサイド2・東京・千駄ヶ谷)
JR中央線(黄色い電車)千駄ヶ谷駅より徒歩2分、又は都営大江戸線国立競技場前駅より徒歩3分。

<塗り替えられて朧げになる記憶…遥か彼方に残る化石化した景色の残像>
 懐かしさすら感じるイギリスの田舎の風景があめ色の半透明なツルツルした表面の奥底に沈んでいて、表層に近い部分には別の線描が施されている…そんなグレアム・トッドの作品は、見る者に昔の景色が化石化したものを見付けて、ノスタルジックな気持ちに耽っている様な気持ちにさせてしまう。
 実際これらの絵は何れも一番底の方に実際のイギリスの典型的なイギリスらしい写真を元に描かれた風景画が眠っており、その上に半透明な樹脂を塗り重ねては線描を描き、塗り重ねては線描を描く…という行為を何度も何度も繰り返した末に出来上がった作品だけに、そうした印象は正しいと言ってよいだろう。
 何故なら、トッドは何層も塗り重ねることで最初の景色を茫漠としたものに変え、その上に次々と載せられて行く景色に新たな記憶=人生の追加をイメージし、そうした積み重ねの奥底に眠る茫漠とした景色…というノスタルジーの原イメージを見出しているからである。
 そう、私達のノスタルジックな気持ちのベースにある記憶は、これ位暈けた曖昧な景色でしかないのだ。
つまり、記憶と忘却の混ざり合った人間の頭の中にある懐かしい景色を絵画化すると…こんな感じになるのだろう。
(12月8日(金)まで)

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「井上尚子」(ギャラリー・ル・デコ・東京・渋谷)
JR山手線&埼京線&東急東横線&新玉川線&地下鉄銀座線&半蔵門線渋谷駅東口より徒歩5分。
渋谷駅東口より歩道橋を渡って明治通りを南(恵比寿方向)へ進んだ左手のビルの5F。

<口の中の世界…食べること・食べられること>
 前回の川口現代美術館スタジオの展覧会では、カラフルで可愛いマーブルチョコレートが口の中で粉々に砕かれ熱で溶かされて行く様を、ビデオと床に玉砂利状に敷き詰めたマーブルチョコレートで可視化するだけで無く、臭覚等を含む五感全体に訴え掛けるインスタレーションを発表した井上尚子は、今回はそのシリーズの一環としてオレンジとオレンジゼリーをモチーフにしたインスタレーションを発表している。
 今回もオレンジを剥いてそれを食べたり、それをゼリーにして行く過程の溶けたドロドロとした状態などを写した映像を、2・3人しか入れない小さなテント状のものに投射し、それを中に入って見れるようにしたり、恰もオレンジの皮の内側を思わせるオレンジの香りを沁み込ませた綿で覆われた2・3人ほどが入れる箱の中から、同じ映像を少し距離をおいて見られる様なインスタレーションを発表している。
 そうすることであたかも自分が食べられたり、溶かされてゼリーにされてしまうオレンジの側から見ている様な印象を与えたり、自分達の仲間である他のオレンジがその様にされて行くのを眺めている様な気持ちにさせてしまうのだ。
 そんなオレンジの立場を体験させる様な井上の独自の世界は、前回のマーブルチョコレートの作品と同様に、食べる美味しさだけでなくそのカラフルでキュートなイメージを愛でる菓子の世界の楽しさを彷彿とさせて楽しい気持ちにさせる一方で、その裏側にある食物連鎖に代表される生きる上での他の犠牲を強いる存在としての人間の業をも思わせる二重性を色濃く持つ。
 人が食べる為に潰されて中の液が飛出す瞬間に口の中にパッと広がるオレンジの味と香りの色に負けない鮮やかさが、たちどころに人の体内に霧散雨消してしまう…そんな過程を外部化し可視化したものとしてのオレンジゼリー作りの様子を含んだ映像は、爽やかというより意味深な作品なのだ。
 そんあ“リンゴの気持ち”ならぬ“オレンジの気持ち”が良く判る!?ミクロの世界の様な作品です。
(12月3日(土)まで)

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「青木野枝」(目黒区立美術館・東京・目黒)
東京都目黒区
JR山手線&東急目蒲線&地下鉄南北線&三田線目黒駅西口より徒歩6分。
目黒駅西口より目黒通りを西(山手線外側方向)へ進んで、橋を渡って直ぐ左に曲がって、目白側沿いの遊歩道を暫く進み、左手のプールなどのあるところを入って行った奥の建物。

<素朴で優しい線描の様に…荒々しさを逆手に取った軟らかなイメージ>
剥き出しの鉄板を溶断しそのまま用いた巨大なオブジェが展示室全体を覆う様に置かれたインスタレーション…と技法・素材の面のみに焦点を当てて書いてしまうと、青木野枝は荒々しくて無骨で如何にも重そうな作品を制作しているのだと想像してしまうだろう。
だが、そうした素材や技法自体の荒々しいイメージとは裏腹に、青木野枝のオブジェはそうした素材や技法をそのまま作品の表層に残しながらも、不思議なくらい優しく素朴なイメージに満ち溢れているという特色を持つ。
何しろ、入り口に立って彼女のインスタレーション全体眺めてみても、その中を歩き回りながら周りを見渡してみても、どう見ても曲線で描かれた素朴な抽象的な線描の中に迷い込んだとしか思えない程なのだから…
では一体何がこの荒々しい素材と技法によって生み出された作品にそんな印象をもたらすのだろう?
恐らくその理由は、鉄板の細く切取られたフォルムが、巨大な鉄板が覆うことで生み出す鉄らしい威圧感を削ぐだけでなく、剥き出しの鉄板の錆びた茶色い色のマットな表面の素朴な味わいを強調したり、溶断ゆえに生み出されたシャープとは言い難いごつごつとしたラインを恰も素朴な手のブレの様な素朴な味わいに変えてしまったりすることで、全体の印象を柔らかな素朴な曲線で描かれた線描の様に思わせてしまう辺りにあるのだろう。
そう、鉄という素材の質感は決して無骨で荒々しく重みのあるものとは限らないのだ。
だからこそ、私達は駆け回る野うさぎや鹿の様に弓の様な弧を描く線描の森を軽やかに飛び回るような楽しさや、巨大なフルーツがごろごろ転がっている様な線描の中で安らかになごむ妖精の様な気持ちになれるのだろう。
そんな男性的技法を見事なまでに女性的な柔らかな表現に用いる青木野枝の作品の魅力が前面に出た小振りながら楽しい展覧会です。
(12月27日(水)まで)

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「坂井淑恵」(白土舎・名古屋・伏見)
〒460‐0003名古屋市中区錦1−20−12伏見ビルB1F
TEL 052−212−4680
地下鉄東山線&鶴舞線伏見駅下車徒歩1分。
広小路伏見と錦通伏見の間、伏見駅9番出口出てすぐ左の横浜銀行のビルの地下1階。

<儚い妖精の様に―暗いトーンの絵画のほのぼの絵画>
 まるで幽霊か何かの様に朧げな感じの顔が空中にぽっかりと浮かび、そこから草原に流れ落ちた涙が池と成った様に見えるペインティングがあるかと思えば、幽霊の様な三角帽の様に髪をなびかせながら空をすっ飛んでこちらへ向かって来る様なペインティングがあったり…この世のものとは思えない儚ないイメージに満ちた不思議な世界を構成したペイティングが並んでいる。
 …と書くと如何にも普通は暗いペインティングが並んだ居るだけで嫌になってしまう様な陰気臭い展覧会を思い浮かべてしまうかもしれない。
 確かに今回の作品に限らず坂井淑恵のペンティングは、以前から何れもダークトーンの色彩のみで描かれている上、そこに描き込まれる人や顔などもこの世のリアルさを想起させないぼわーっとしたラインの不明確な描き方をされており、決して明るく生き生きとしたイメージには程遠いのは事実であるが、不思議と絶望的な暗さは決して感じられない。
 それどころか坂井の絵を見ていると優しく柔らかな眼差しに見守られている様な安らぎすら感じられてくるのである。
そう坂井の手に掛かると、ダークトーンの色彩で描かれた消え入りそうな位儚げなモチーフ…という一見暗さ思わせる手法は、絶望的な暗さから一転して悲しみにくれる子を暖かく包み込む母親の様な慈愛に満ちた雰囲気を表すのものへと転換されてしまうのである。
ダークトーンはギラギラとしたエネルギッシュな社会とは切り離されたしっとりとした安らぎのイメージを想起させ、消え入りそうなモチーフも恨めしい幽霊や死にそうな位絶望的なイメージではなく、天からの慈愛を届けに来る妖精達のようなソフトな優しさを想起させ、私たちに安らぎに満ちた世界へと誘うのだから…
 そう、坂井淑恵の絵は妖精達の慈愛に満ちた夢の国なのである。
(12月22日(金)まで)

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「平田五郎」(ノブギャラリー・愛知・岡崎)
〒444-0834 愛知県岡崎市柱町上荒子58 TEL : 0564-58-1270  E-mail : nobg@gol.com  
ノブギャラリーホームページ
JR岡崎駅東口より徒歩3分。東口の階段を降りて右に行き最初の信号を左折して、少し行った左手の2階建ての洋館。

<神秘的な光の美…平田五郎の積木の家>
 ギャラリーの展示空間のほとんどを占拠する様に張られた真白な布で覆われた空間の中で、その白い布を通じて射し込む柔らかな乳白色の光に包まれる様に建つ半透明な真白い小さな家。
 そんな物語にでも出て来そうな妖精たちの家を思わせる幻想的な小さな家は、小人は兎も角普通の人はまともに立って入ることが出来ない小さな入り口があり、その奥に小さな部屋が幾つか続いているのが見える。
身を屈めるようにしてその狭い目の前に壁がある様な真白な部屋を辛うじて通り抜け1階をほぼ一周し、一番奥の部屋に辿り着き、天井の孔から2階へ顔を出すと…それまでの通り難い通路を進むストイックな修行を思わせる苦労はそこで一気に吹っ飛び、一転してただただ乳白色の光に包まれた天国の様な幻想的な雰囲気に包み込まれる。
何しろ、そこには日常の細々とした猥雑なものが何一つ無く、ただひたすら乳白色の神秘的な光のみが支配する空間であり、まさに天国そのものと云って過言ではないほど見事な空間構成になっているのだから…
では、そんな見事としか云い様が無いこの平田五郎のインスタレーションは、一体何処にそのビジュアルの凄みがあるのだろう。
勿論一義的には床・天井から周囲の壁に到るまでその空間の周り全てを隙間無く白い布と蝋で覆い尽くし、光を柔らかい乳白色に変えて透過させながらも、外の景色を一切寄せ付けない隙の無い空間の構築を図ったことにあるのは間違いないだろう。
しかし、それだけではなく、その白い布に覆われた内部に入るまでにその周りを歩かせ、更に中の小さな家の中では身を屈めて白い壁を目と鼻の先ギリギリになりながらグルグルと進ませる…という辿り着くまでの大変さを抜きに、この作品を語ることは出来ないだろう。
何しろ、そうした作品の通路の構造こそ、町に面した山裾の鳥居から参道をひたすら登った上の森の中に作られた幻想的な宗教空間としての本殿を持つ神社の構成を思わせる心理的な効果を持ち、その光の幻想性を一層強めているのだから…
そう、平田五郎のインスタレーションは乳白色の極楽浄土を思わせる空間とその参道からなる宗教施設の光の美的要素のみを純化して取り出した見事なビジュアルシステムなのである。
(12月24日(日)まで)

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「松澤宥−「トンネル効果」により、しかし」(弁天サロン・佐久島西港・愛知・一色)
愛知県幡豆郡一色町佐久島西区
TEL0563−79−9602(岡崎ラブ+地球分室佐久島)
弁天サロンホームページ
一色港(名鉄三河一色駅より徒歩15分)より一色町営渡船35分の佐久島西港より徒歩1分。
佐久島西港桟橋より渡船待合所の前を右折し、そのまま暫く道なりに進み2ツ目の角の建物。

<トンネル効果により同時に2ヶ所で存在した後は…この世に存在する意味の問い掛け>
 消滅すること…をテーマにコンセプチュアルな活動を続けて来た松澤宥は、今回はそこに江崎玲於奈が発見したトンネル効果という奇妙な存在状態を表す言葉を持ち込む形で新たなパフォーマンスを行った。
 以前から“消滅しよう”という言葉を投げ掛けることにより、逆説的に今ここに私達人間が存在していることの意味を問い掛ける仕事をして来た松澤にとって、同時に2つの場所に同じ物が存在し得るというこのトンネル効果という学説は極めて興味深いものだろう。
 何しろ、例え瞬間的にであれ同じ物が同時に2ヶ所に存在し、それが次の瞬間には再び一つになっているとすれば、もう一つのものが瞬時に現れて瞬時に消滅していった…ということを意味する筈であるから、消滅を謳い上げるには格好の言葉の一つと言えるからである。
 つまり、私たちが仮にトンネル効果を体験できたならば、主観的に自分が二人存在し、次の瞬間には自分が消滅してして行くのを体験出来ることになるのである。
 そう、“トンネル効果により”私は二人に増えるが、“しかし”それは同時に次の瞬間に於ける私の消滅を意味するのである。
 まさにこの世に出現して消えて行く人生の縮図が瞬時に生じるのであり、自分がこの世にあるとは何かを考えるには格好の文言として左右するのである。
 だから、今回のパフォーマンスは非在などの様々な状態を通り抜けながらも最後のトンネル効果に辿り着けば、次は消滅に直結するからこそ“トンネル効果を捨てて、消滅しよう”なのである。
 この様に松澤宥は電子の瞬間的な二重存在状態を表す“トンネル効果”という言葉を用いて存在と消滅を表すことにより、私たちが今ここに生きていることの意味を考えさせるパフォーマンスを行ったのであり、ここでは“トンネル効果”という言葉が仏教に於ける“南無阿弥陀仏”や“虚空”に当たる言葉として機能しているのである。
 しかし、本当に“トンネル効果”を体験し、瞬時の消滅を経験出来たなら…もう一つの自分の方にそれまでの知識・経験も全て伝わって行くのだろうか?
 そう思うと単なる物理的存在ではなく、知識・経験の存在としての人間の存在を考えざるを得ない。
 一体人間として今ここにいる意味は何なのだろう?
 一見無機質な科学的言葉も使い様によっては極めて哲学的な意味合いを持つのである。
(パフォーマンスは11月11日(土)のみ・展示は11月30日(水)まで)

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「パフォーミングライト−ウーライ」(佐久島西港漁具倉庫・佐久島西港・愛知・一色)
愛知県幡豆郡一色町佐久島西区
TEL0563−79−9602(岡崎ラブ+地球分室佐久島)
弁天サロンホームページ
一色港(名鉄三河一色駅より徒歩15分)より一色町営渡船35分の佐久島西港より徒歩1分。
佐久島西港桟橋より渡船待合所の前を右折し、そのまま暫く道なりに進んだ3つ目の角の古い建物(弁天サロンの右隣)。

<島の長い歴史に思いを馳せて−写し取られた一瞬に込められたそれ以外の長い時間>
 窓も扉も全て閉じられて真暗闇にされた木造の漁具倉庫を暗室として用い、床に敷かれた感光用の乳剤の塗られた大きなシートに漁具を写したり、その上に集った人々の足の写したり、島のお婆さんを寝かせてそのシルエットを写し込んだり…
 真暗といっても、古い木造の倉庫だけに隙間が多数有り、目が慣れてくればその隙間から入る光がまるでプラネタリウムの様に美しく見えたり、そこから入り込む微かな光で古びた建物の構造自体の武骨さの魅力や、そこに残された古道具類等がこの現世離れした暗さの中でひっそりと浮び上がり、島の長い歴史へと思いを馳せるには最適な道具立てとして私達の心を捉えて放さない。
 そんな思いに耽りながら島のお婆ちゃんが二人ウーライに導かれて感光用のシートに横たわるのを見るというより音として聞いている状態が続いた後、強烈なフラッシュが瞬きお婆ちゃん達のパフォーマンスを一瞬にして写し取って行く。
 そんな一瞬だけ暗闇が消え眩い光に包まれる撮影の瞬間と、それ以外の隙間から漏れる仄かな光のみの暗闇の時との鮮やかなコントラストが想起させる歴史とその一瞬を捉える写真という技術の特質の対比は、このパフォーミングライツがこの島の長い歴史のほんの一瞬を撮影したに過ぎず、その背後には深く長い歴史的な含蓄が込められているのだ…ということを表すのみならず、こうした撮影に観客を立ち合わせること自体を作品とすることで、撮影した瞬間以外の間に島の歴史へ思いを馳せる間合いを与えていると言って良いだろう。
 そう、ウーライは瞬間に光を当てることで光を当てていない他の部分へも光を当てているのだ。
 こうして作られた3枚の島に関連したものを写したシートは翌日筏に帆として結び付けられ、島の集落の間を神輿の様に担いで練り歩きながら佐久島最大の浜辺大浦に運ばれ、沖へ向かって進水させて行った。
 かつて千石船も行き交った佐久島の穏やかな海をゆっくりと沖合いへと進む船は、島で撮影したイメージを掲げながら、時代の波に揉まれながら続いて来た島の歴史と同じ様に風と潮の流れにその行方を委ねて…
(11月11日(土)・12日(日)のみ)

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「川端紘一−魂砂」(地球分室美学スペース2・愛知・佐久島)
愛知県幡豆郡一色町佐久島東地区
TEL0563−79−9602(岡崎ラブ+地球分室佐久島)
一色港(名鉄三河一色駅より徒歩15分)より一色町営渡船35分の佐久島東港より徒歩5分。
佐久島東港より待合所の脇より堤防の内側の道に出て左手に進み、大浦沿いの空き地の脇の狭い道を入り、看板に沿って進んだ左手の平屋建ての建物の前の野外スペース。

<風土というもの…地の素材・地の風景の融合>
 古い集落の中にある古い民家の庭を整備した野外ギャラリーの土が剥き出しの地面に、土の色とは対照的な白さの目立つ砂の山が数点設置されている。
 それらの砂の山が、かつては東海の松島とも呼ばれたこの島の白砂青松を思わせるこの美しい砂の白さをそのまま生かし、柔らかく盛り上げられた砂に一本の線が引かれた川端紘一の“魂砂”という作品である。
 地べたとは対照的な白さと優美な砂山の丸みは、真中に引かれた一本の線の窪みと相俟ってエロティックさすら感じさせ、母なる大地という言葉に代表される女性的なものを想起させられ、その柔らかな砂の山に実を委ねたい衝動に駆られる。
 勿論この砂を乾かし、それを盛って形を整えたに過ぎない極めてシンプルで自然そのものと言って良いこの川端の作品は、同じスタイルの作品を大都市のギャラリーの屋内でも発表しているが、その時とは大きくイメージが異なる様に感じられる。
 何故なら、街中にあるギャラリーの室内で美しい漆黒の盆の上に盛られた“魂砂”が美意識の発露として人の手によって切取られ整えなれた生け花的な人工の美を感じさせるのに対し、ひなびた島の野外に地元の砂で作られた今回の作品はそこの自然からスーッと立ち上がった様な極めて自然なイメージを受けるからである。
 やはりその土地固有の素材がそこの地べたから直接立ち上がっているまさに風土そのものだからだろう。
 そう考えると、この作品は実に土着的でローカルな作品ということになるのだろう。
(11月30日(水)まで)

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「水谷勇夫−2000年8月6日原爆忌」(弁天サロン・佐久島西港・愛知・一色)
愛知県幡豆郡一色町佐久島西区
TEL0563−79−9602(岡崎ラブ+地球分室佐久島)
弁天サロンホームページ
一色港(名鉄三河一色駅より徒歩15分)より一色町営渡船35分の佐久島西港より徒歩1分。
佐久島西港桟橋より渡船待合所の前を右折し、そのまま暫く道なりに進み2ツ目の角の建物。

<悲劇の白骨への千羽鶴―広島の悲劇を想起させる白いオブジェの浮遊>
 弁天サロンの土間の脇にある和室に砕け散った白骨を思わせる白い抽象的なオブジェが微かに揺れながら無数に浮かんでいる。
 その悲しげに浮遊する姿は滅びた肉体を想起させ、その滅びる元になったものへの怨霊を思わせながらも、恨みつらみというおどろおどろしさは無くどこか安らかさを感じさせる部分もある。
 きっと“2000年8月6日原爆忌”との題名から判る様にこのインスタレーションは、 猛烈な爆発力がもたらした高熱と突風で人命ばかりか建物などまで吹き飛ばした原爆の惨状を物語る為に、白いオブジェを無数に宙に浮かべることで焼けながら砕け散った白骨や建物の破片を思わせると同時に、そこに平和への祈りの気持ちを込める為に、過剰なおどろおどろしさを持たせない様にわざとされているのだろう。
 そう、これは水谷勇夫による千羽鶴の様なインスタレーションなのである。
(11月30日(水)まで)

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「小林孝旦−Drop of Heart」(西村画廊・東京・銀座)
〒104-0061 東京都中央区銀座4−3−13西銀座ビルB1 TEL 03−3567−3906
西村画廊ホームぺージ
地下鉄銀座線&日比谷線&丸の内線銀座駅下車徒歩1分、または、JR山手線&京浜東北線有楽町駅より徒歩5分。

<つるっとした中に残る温かみ…焼き物を思わせる小林孝旦の絵画>
 夜闇を走るバスやバイクの後姿等を描いた小林孝旦の新作ペインティングは、周囲の街並みや人々といった背景を全く描いていないにも拘らず、ほのぼのとした庶民のささやかな生活の息吹を見る者に強く感じさせずにはおかない。
 夜闇の中をテールランプや車内灯を点けながら走るバスの後姿だけを背景も無しに描くなど、決して無闇矢鱈に細々とした日常のモチーフを無数に描きこむことも凸凹した描き方で人間臭さを出すのこともない、むしろ淡々とつるっとした描き方で描かれた小林孝旦の作品は、かつての犬などを描いていた頃と同じく、シンプルで凹凸の無い滑々した表層を持ちながらも不思議と金属的な冷たさを感じさせないイメージを持ち、見る者をどこかホッとした暖かな気持ちにさせずにはおかない。
言い換えれば、小林の絵画はステンレスの食器の様なメタリックな冷徹さではなく、端正に形を整えられたシンプルな焼き物を思わせる様などこか素朴な温かみを感じさせる要素を常に持っているのだと言っても良いだろう。
そういう意味では、小林孝旦は、産業革命以降の機械化量産化に伴う様々な生活用品のシンプル化への反動である社会全体の素朴な手作り感への渇望を背景にして成り立つ手打ちうどんやエスニック雑貨や古民家・古家具の絵画版に当たるもの…としての如何にも手書きですと言わんばかりの塗りを強調した筆致という技法には基本的に頼っていない。
かといって手の痕跡の感じられない端正な画面でありながらも、決して単純な情報伝達の為のシンプルな記号として描かれるのではなく、あくまで見るものとしての純粋な絵画性に拘り、その中に仄かに温かみを感じさせるイメージを作り上げることにその主眼を置いている小林孝旦の絵画は、イラスト的と見ることも出来ないだろう。
そう考えると…小林孝旦の絵画は極めて伝統的なスタイルの絵画であり、そこにあくまで描く対象の捉え方・選び方といったモチーフの点で、日常生活への暖かな眼差しを描き出していると捉える方が適切ということになるだろう。
やはり、写真や映像が美術に成り得るかというのと同じく、フレーミング=モチーフに何を選ぶかが、絵画を美術足らしめるのだ。
そう、小林孝旦の絵画は彼自身の持つ眼差しの美術性を卓抜した絵描きとしての能力に載せて作品作りをしているのだ。
だからこそ…つるっとしたシンプルな画面の中に素朴な温かみを感じるのだろう。
(12月2日(土)まで)

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「ヘリ・ドノ」(国際交流基金フォーラム・東京・溜池山王)
〒107-0052 東京都港区赤坂2-17-22赤坂ツインタワー1F  TEL 03-5562-3892
地下鉄銀座線&南北線溜池山王駅12番出口より徒歩1分。
溜池山王駅12番出口より六本木通りを六本木寄り(溜池交差点とは逆方向)へ進んだ最初の角の建物の1階。

<キッチュでユーモラスな皮肉―したたかに生きる庶民の本音を代弁する美術>
 政府を含む権力者達が庶民を監視して抑圧する社会を、キッチュでユーモラスなイメージに包んで皮肉り、剥き出しの電気配線やモーター・制御装置に、ワニみたいな口の上に飛出す様に付いている目をモーターで左右にギョロつかせ、周囲を睨み付けるキッチュな顔のオブジェが、ズラリと壁の上の方に一直線に並べられたインスタレーション“周縁の人々を監視する”。
 FRPで出来た等身大の人体像のペニスの先に開けられた穴から覗くと、都市の貧民街の映像が見られるオブジェで、フィリピンのスモーキーマウンテンに代表される大都市中心部にある現代社会の恥部としての貧民街“インナーシティ”問題を、人体の恥部に引掛けて皮肉った“インナーシティ”。
 剥き出しの手作りの電気配線(電磁石を含む)で叩く木と鉄板で出来た中途半端に近代的!?な多数のキッチュな簡易ガムランが、小さな不協和音を奏で続け、まるで庶民が強権的な体制下でヒソヒソと噂話をすることで、半ば無意識に抵抗する姿を思わせる“噂のガムラン”。
 固く閉じられた口とは裏腹に、何かを訴えたいかの様に目をギョロつかせ、透明アクリルの板の向こうに見える胸の内から声成らぬ声を上げる上半身の像が、まるで宗教儀式か政治集会の様な形で、床の近くをくるくる空回りする扇風機!?のある正面に向いているインスタレーションで、無言の反政府運動を公然と出来ないながらも、ついつい滲み出るインドネシアの人々の複雑な胸の内を想起させる“魂の祝宴”。
 白塗りのピエロ風の顔の部分のみが鉄の棒で出来た三脚の上に載ったオブジェが多数並べられたインスタレーションで、支える肉体無しに頭のみが存在する姿に、庶民の支持無しに成り立つ政治状況のピエロ的な側面を皮肉る“政治的道化師”。
 本の置かれた木で出来た机と椅子の並べられた教室を思わせる空間の中で、瞳を閉じた無表情な頭が眠って船を漕ぐかの様に前後に揺れるインスタレーションは、腐った(良く言えば発酵した)抑圧的な教育の下自発的で快活な人格を押し潰された人々を想起させる“発酵する精神”。
 そして、天井近くをボロボロに成りながらも羽をゆっくりと動かして懸命に飛び続けている哀愁漂う庶民の味方の天使の群れ“飛翔する天使”。
 どのインスタレーションも決して煌々と明るい照明の下に置かれるのではなく、“ともしび”という言葉がしっくり来る様な小さな弱い光にしょぼしょぼと照らされていて、美しいとか、品があるとか、可愛いとかといった言葉よりも、キッチュとか、アイロニカル(皮肉っぽい)とか、不条理的とか、庶民的とかといった言葉の方がしっくり来る作品ばかりが並んでいる。
 そう、それこそがヘリ・ドノの作品に共通する…というよりヘリ・ドノの思想とでも呼んで良いほど彼の心身に染み付いた感覚なのである。
 何しろ、大衆達がしばしば打ち捨てられたゴミの中からラジオなど様々なものを再生し生活の中で使用したりするのと同じ感覚を作品に持ち込むことこそが、今のインドネシアをはじめとする俗にいう発展途上国の社会のリアリティであると考えるから、そうしたガラクタ的キッチュさを作品の中にストレートに持ち込むし、監視の目を潜りながらの権力批判の方法として不条理な社会の下で精一杯生きる庶民達が、この世の不条理をアイロニカルに表現して笑い飛ばすことで権力者を批判するスタイルを取り込むことで、社会的な表現が美術として可能になるし、リアリティもあるからこそそうしたアイロニカルな表現を取り込むのだ…というのがヘリ・ドノの基本的な考え方であるに違いないのだ。
 だからこそ、ヘリ・ドノの作品は誰から見ても極めてリアリティのあるインドネシアを含めた発展途上国の問題を表現するものになるのだろう。
 そして、そのことは単なる発展途上国の社会の不条理のみに向けられるのではなく、同時にホームレスを生み彼等のゲットーというインナーシティーを抱える自称先進国の不条理な社会、そして発展途上国を経済的合理性の名の下に搾取する現在の国際社会といった国際社会全体に蔓延る不条理へのアイロニーへと広がり、私達にも極めてリアルな鋭い指摘としてその皮肉が直接的に利いてくるのだ。
 そう、単に私達はよそごととしてそのアイロニーを見ることは出来ないのである。
 これが、ヘリ・ドノが世界で評価される理由に違いないだろう。
(11月18日(土)まで)

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「アイディー・ブティック」(鎌倉画廊・鎌倉・鎌倉山)
〒248-0031 神奈川県鎌倉市鎌倉山4-8-33 Tel: 0467-32-1499 Fax: 0467-32-8920
JR東海道線&横須賀線&本牧線大船駅東口交通広場4番乗場より京急バス江ノ島駅行きに乗り、鎌倉山バス停下車徒歩3分。

<服が表すアイデンティティ…外見が中身を規定するのか、それとも中身が外見を規定するのか>
 服装は人を現す…というのは良く言われることである。
 実際サラリーマンは如何にもサラリーマン風な背広を着てネクタイを締めて事務所で働いたりお客を駆け回っているし、工員さん達はナッパ服を着て工場で働き、中高の男子は詰襟・女子はセーラー服やブレザーで賑やかに動き回り、医者や看護婦さんは白衣でスチュワーデスやキャリアウーマンはパシッとしたスーツを着てシャキンと背筋を伸ばして颯爽と歩いて行く…というイメージがある。
 それ位人々のアイデンティティと結び付けて見られる服であるが、このことを一環としてモチーフとして来た美術家というのは、恐らくこのアイディー・ブティックだけだろう。
 彼らは、1994年の“人間の条件”展での日下淳一+日下むつよが衣食住3部作の一部として服をモチーフにした作品を作ったのをきっかけに、佐々木翼らとアイディー・ブティックというユニットを結成して以来6年にわたって服とアイデンティティの関係をテーマに製作して来た彼らは、当初は制服や背広などの素材を通常のイメージと全く異なる素材に置き換えることでその意味性を突き崩し、服にまつわるアイデンティティを問い直すシリーズで鮮烈なデビューを果たし、今日まで服装とアイデンティティの追究に専念し続けた来た。
 当然のことながら、今回もそうした服の素材をずらすことで意味性を与える作品のひとつとして“ブルーシート・スーツ”と“幼稚園児のための横縞のスモッグ”という新作を発表している。
 勿論この作品は題名から想像できる通り、ホームレスの人々が雨露をしのぐ為に用いるブルーシートをサラリーマンの象徴であるスーツに仕立て上げたものである。
 リストラや倒産に伴う失業で何時路頭に迷うホームレスになるか判らないサラリーマン、ローンで住宅を買ったもののバブル崩壊で給料が上がらない為に払いきれずに家を手放し路頭に迷うサラリーマン、集落という規模に膨れ上がったホームレス達のブルーシートのテント村、そして実際にスーツ姿のホームレスが話題になる…そんな現在の日本の悲しい実情が頭の中を走馬灯の様に駆け巡る。
 ブルーシートで出来たスーツだから雨でも安心だ…などと楽しく騒ぐ気持ちになれない重苦しいイメージに満ちた“ブルーシート・スーツ”は、こうした素材ずらしの技法で作られたシリーズの中では、ある意味では社会的なメッセージ性の最も強いものと見て良いのではないだろうか。
 そうした社会性という点では“幼稚園児のための縞模様のスモッグ”も勿論コンセプトの中に含んでいると言って良いだろう。
 みんなと一緒という共通のアイデンティティの要素というよりも、コストが安いとか先生側が管理し易いとかといった理由で一般的に日本の幼稚園児たちが着せられるスモッグ。
 その意味合いに大人達の都合による管理の為の服としての意味合いが強いこの子供達の制服に、横縞模様の囚人服の要素が含まれていることを告発するのみならず、お洒落な服を含めて子供達が親の都合で押し着せられた服でアイデンティティが形作られて行く側面をも指摘するシンプルながらも意味深な作品と言えるのではないだろうか。
 それに比べると、1996年の榎倉康二の追悼展での榎倉のシミの作品をモチーフにした作品にルーツを持ち、1998年のハラミュージーアムアークでの“アートは楽しい9”展の頃から展開が始まった世界の美術の名作をモチーフにした“グレート・マスター”シリーズは、一見過去に美術におもねったコンセプト性が弱い作品の様に思われるかもしれない。
 しかし、今回も出品されているジェニー・ホルツァーをモチーフにした“電光掲示板スーツ”で、“服は制度である それは拘束することも 解放することも出来る…”というアイディー・ブティックの作品作りのコンセプトを明快に打ち出していたり、“レインボー・スーツ”で街中に出て現実の街中に絵画を持ち出した歩くパブリックアートとしてのカラーを見せていたりする等決して、コンセプト性が弱い作品だとは言えないことは、今回の作品を見ても極めて明確に感じられた。
 こうしたこれまでも製作して来たシリーズの他に今回は、先日までフランスでのアーチスト・イン・レジデンスでの経験を踏まえた新たなシリーズも発表されている。
 海外に行くことで否応無しに感じる自己の日本人性をモチーフに日本を着て歩くような感覚を表した“日の丸コート”。
 日本ではお祝い事に用いられる赤と白のストライプがフランスでは危険を表す…という風習の違いをモチーフに、同じイメージが全く違う捉えられ方をすることに“デンジャラス⇔ハピネス・スーツ」。
 どちらの作品もこれまで無意識に着こなして来た日本というアイデンティティを、再確認しながら仕立て直し、意識的に着直した…イメージを強く持ち、海外で生活した日本人が一度は直面するナショナルアイデンティティの問題、もっと言えばグローバル化社会に於けるその人の出身地によって否応無しに規定されるアイデンティティの問題を、服というメディアを通して表現したものと言って良いだろう。
 そして、止めを刺す様にこうした強烈な個性を発することの出来ない多くの普通市民達のアイデンティティをテーマにした新シリーズ“Vゾーン・アイデンティティ”が今回発表されている。
 スーツにワイシャツにネクタイというほとんど差異化が不可能に近い服装が、実質的な制服と化した世界に生きる多くのサラリーマン達にとって、好きなネクタイを毎日選んで変えて行くこと位が唯一の服に於けるアイデンティティである…という事実を思い起こさせる様に、白いワイシャツにネクタイを締めた写真とそのネクタイを瓶詰めにした作品が、数点並んでいる。
一見何気無いネクタイ姿にしか見えない作品だが、良く見るとポケットが付いていて名刺やペン等を入れられるネクタイだったり、タオル地のネクタイだったり、しま馬模様のネクタイだったり、まるで結婚式でワインをこぼしたみたいに先端が赤ワインでシミになったネクタイだったり…と、さり気無い中に極めて奇妙奇天烈な強いアイデンティティを感じさせる楽しいインスタレーションである。
中高生がスカートやズボンの丈を変えたり、江戸時代に贅沢を禁じられた江戸っ子が裏地に凝った姿を思い起こさせる様な“隠れた楽しみ”をモチーフにしたこのシリーズは、世間の目というものを含めた社会システムが隅々まで確立してしまった様な閉塞感に管理された窮屈さを感じる現代社会で、普通のありふれた社会人として生きる人々のアイデンティティ表現の限界そのものかもしれない。
本当はVゾーンだけでなく、服装全体を楽しみたいのだろうが…
(12月20日(水)まで)

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「染谷亜理可」(ケンジタキギャラリー東京・東京・初台)
〒160−0023 東京都新宿区西新宿3−18−2−102 TEL 03−3378−6051
京王新線初台駅より徒歩5分、又は、JR&京王&小田急&地下鉄新宿駅より京王バス中野車庫・中野駅行きに乗り西新宿小学校バス停下車徒歩1分。
初台駅より新宿より甲州街道を進んで最初の信号(オペラシティとNTT本社のある交差点)を左折して山手通りを北へ進み、また最初の信号を右折してしばらく行った右手の少し引込んだマンションの1階(右隣も現代美術ギャラリー・ワコーワークスオブアート)

<気配を感じさせるもの―シミの模様の強さの様に>
街などの光景が恰も夕日に照らされた絨毯に出来た影なのかシミなのか…そんな風に思わせる様に微妙な濃淡のある毛足の長いカーペット状のものが、床に敷かれていたり、壁に掛けられていたりする
そんな染谷亜理可の新作は、傍らで佇ずむ様にその画面を眺めていると…思わず後ろを振り返ってその陰の元となった美しい光景をこの目で見たくなる気持ちに駆られてしまう位そのビジュアルを生み出す何か他のものの存在を見る者に強く意識させずにはおかない。
と言っても過言ではないほど、絨毯などとして見慣れたベルベットという素材自体の持つ物質的な存在感の強さと日常性、その特有の毛足の長さがもたらす陰影に富んだ深みある味わい、そしてやや茫漠とした影の様なイメージ…等々を組み合わせることで、そこに色を抜くという技法で描かれたイメージは、恰もその近くに実在する何かの影かシミの様に思わせ、単なる平面の領域を超えた気配をその場に漂わせ、私達を包み込んでしまう。
それ位ベルベット素材の毛皮に似た毛足の長さが生み出す存在感ある陰影という質感と、ややぼかした輪郭を持つ模様を巧みに操ることで、茫漠としていながら存在感がある影=影の主体となっているものの存在を強く意識させる染谷のビジュアルコントロールの技法は、訴えかける力を持っているのだ。
そう気配に怯えそうになるほど…
(11月4日(土)まで)

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「ウォルフガング・シュテイラー」(レントゲンクンストラウム・東京・青山)
〒107−0062 東京都港区南青山3−14−13ツイン南青山103
TEL 03−3401−1466 E−mail roentogen@gol.com
営団地下鉄銀座線&半蔵門線&千代田線表参道駅下車A4出口より徒歩5分。
A4出口を出て左へ行き、「Basile28」の角を左折し、突き当たりを右折してすぐの「Mod’s Hair」の角を左折し二本目の露地の奥のマンションの1階。
レントゲンクンストラウムホームページ

<溶けて固まったパラレルワールド>
物凄い量のチーズの山でもあるのではないか…と思わせるほど強烈な鼻につく匂い。
そんな思わず中に入るのを止そうかと思うほどの強烈な臭いの中に意を決して入り、奥の部屋を覗き込むと、まるで灼熱で溶けた世界か、それとも逆に全てが凍り付いてしまった氷の世界か、何れにせよ動くものの無い死の世界…と見まがうばかりの奇妙なビジュアルに直面する。
実際有機的なものの存在しない溶けた死の世界のイメージも凍り付いた死の世界の様なイメージもどちらもある意味では正しいと言えるかもしれない。
何故ならそこに広がっている世界は、溶かした蝋を大量に用いて作り上げられた鍾乳洞かミクロの都市の様なものであり、この蝋が仮に普通の私達が生きる世界の建物だとしたら、ここまで溶ける様なら物凄い灼熱の世界だろうし、逆にこの蝋が水分などが凍りついたものだとしたら、そこは極めて冷え切った凍て付いた世界であるに違いないからである。
そう、普通ではこんな大量の蝋が溶けて眼前にあるという状況に直面しない私達にとっては、とけて垂れた部分が見られる様な状態で固まったもの…といえば、どうしても灼熱か氷結の世界を思い浮かべてしまうのはやむを得ないところであろう。
事実このインスタレーションは、有機物の無い無生物の死の世界なのだから…
(11月18日(土)まで)

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「山口晃」(ミズマアートギャラリー・東京・青山)
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5−46−13 TEL 03−3499−0226
地下鉄銀座線&半蔵門線&千代田線表参道駅B2出口より徒歩6分。
B2出口を出て青山通を渋谷方向へ直進してCITIBANKの角を右折し、しばらく行った右手のビルの1階。
ミズマアートギャラリーホームページ

<雲の切れ間に時代のごった煮…戦国自衛隊を思わせる新たなる絵巻物語>
 伝統的な日本画のコマ割である雲で区切る技法や、時間軸の全く異なる場面を同一の画面上に描く技法などそれこそ絵巻物の時代にまで遡ることが出来る日本の伝統的な描画法をベースに、現代・過去・未来の日本の光景を混ぜこぜにした奇妙な絵巻物語的世界を構築する山口晃。
 武士が騎馬ロボットに跨っていたりする等現実の歴史では在り得ない様々なカラクリが登場する戦国絵巻が繰り広げられていたり、江戸時代風の街並みと共に如何にも現代的な工業地帯が書き込まれていたり…かつての漫画戦国自衛隊を思わせる程荒唐無稽な時代のごった煮が繰り広げられる奇妙奇天烈な世界は、山口の卓抜な技量の故にほとんど違和感無く画面に収まり、遠くから一瞬ぱっと見ただけでは普通の昔ながらの大和絵的なものにしか見えない代物である…という不思議なもの。
 勿論こうした人々の錯覚を誘ったり、笑いを誘ったりする不思議なパラレルワールドの世界を如何にも自然に仕上げることで成り立つ作品は、山口がこんな馬鹿馬鹿しい荒唐無稽な世界を構想するだけでは成立しない。
 そこに卓抜な日本画家として立派にやって行ける技量がこの妙なディテールを覆い隠せるレベルに達していなければ、到底不可能なのである。
 そう、戦国自衛隊的な現在・過去・未来の時代のごった煮を夢想すると同時に卓抜な日本画の技量を持つという桁違いのギャップこそが、山口晃の奇妙奇天烈な世界を支える生命線なのである。
(11月4日(土)まで)

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「ジーン・ダニング」(小山登美夫ギャラリー・東京・佐賀町)
東京都江東区佐賀町1−8−13食糧ビル2階 TEL 03−3630−2205
営団地下鉄半蔵門線水天宮前駅下車徒歩8分、または、営団地下鉄東西線門前仲町駅下車徒歩12分。
水天宮前駅を降りて、そのまま隅田川大橋を渡って階段を降りて右折し、信号を過ぎて3本目の道を左折して少しいった右手の古い立派な西洋建築の2階(階段上がって左に行った左側)。
小山登美夫ギャラリー ホームページ

<皮膚―身体のイメージを左右する表層>
 まるで身体の一部が溶けたかの様に肌の様な生々しさを持つ柔らかな肌色のものが、女性の体から流れ出す様に伸びていたり、肉体から離れてパン生地の様になって体の上に乗っかっていたり、和菓子の餡子を水に晒してアク抜きするかの様に風呂の湯の中に漬けられていたり…
 前回のこのギャラリーでの個展と同様に皮膚や身体の延長線上のイメージを操作し、身体と外部の間の関係性、即ち人体と外界の境界を意識した写真とビデオの作品が並ぶ。
前回の粘膜的なエロティックさすら感じた生々しさは少し控えめになり、腹から偽の身体がタラリと流れる様に横へ飛出している様な在り得ないイメージを作り出すことで、身体と外界の境界としての皮膚という表層が如何に堅牢に自分の身体というものの領域を統御しているか…を見せる作品は、物理的な意味合いでの自己と他の極めて明快な表現として強い印象を私達見る者に与えずにはおかないだろう。
それに比べると、身体を完全に離れ水中に沈められ、しかも表面の張りを失った物体は最早身体のイメージの代替物とはなり得ていない。
そう、そこにある物は他の写真で肉体の一部のイメージを構成していたものと同じものでありながら、全く身体的特徴が欠落し、抜け殻としてのイメージすらもなく、むしろ水に浸けてアク抜きする餡子を思わせる程にまで別物になってしまっているのだ。
これは肉体を離れた皮膚や肉が同様に身体のイメージとは外れて行くイメージなのかもしれないが余計な作品で、展覧会全体のイメージを少々損ねている様な気がしたのは私だけだろうか?
面白いモチーフを選んでいる作家だけに些か残念に思えた。
(11月11日(土)まで)

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「プラスチックの時代−美術とデザイン」(埼玉県立近代美術館・埼玉・北浦和)
〒336−0001 埼玉県浦和市常盤9−30−1北浦和公園内
TEL 048−824−0111
JR京浜東北線北浦和駅西口より徒歩3分。
北浦和駅西口よりロータリーの正面の道を真っ直ぐ進み、最初の信号を渡って左角にある公園の中の斜めの道を進んだ正面の建物。
埼玉県立近代美術館 ホームページ

<プラスチックの質感・意味合いはどんな風に変って来たのか>
 プラスチック…もともと思う様に成型出来る可塑性に富んだものを意味するこの言葉で呼ばれる合成樹脂は、今や存在しない状態など想像も付かない位ありふれた素材となったまさに20世紀を象徴する物質と言って過言ではないだろう。
 そんなベークライト・アクリル・塩化ビニル等に代表されるプラスチックがレコード・家具・筆箱・弁当箱から戦闘機の風防ガラスに到るまでありとあらゆるところに使われ、社会を席捲して来た歴史を振り返る博物学的な展示と、それに伴って出て来たプラスチックで出来た美術作品を集めた展覧会として企画されたのがこの展覧会である。
不思議なことに、銅器の誕生に影響されてブロンズ彫刻が生まれ、鉄鋼業の発達と共に鉄の彫刻が生まれたのと同様に、プラスチックの産業的社会的な発達と共にプラスチックの美術が生まれて来るのはごく自然の成り行きであるにもかかわらず、そうした点にスポットを当てた展覧会は寡聞にして知らない。
 やはり、プラスチックが天然素材の代用品として大量生産された安価な普及品であるというイメージが強く、そのことが美術という高級なイメージのある(実際しばしば価格も高い)ものと結び付き難かったのだろうか?
 しかし、極めて可塑性に富み、色鮮やかな着色が自由に行えて軽いこの素材は、実際には自由な表現を求める美術の素材としても大変大きな可能性をもっているのは間違いないし、これまでもこの展覧会に出品されている作品を含めて数多く作られ、今後もそうした傾向は留まることを知らないだろうと思われるだけに、近代に区切りを付ける20世紀の末にこうした展覧会が開かれる意義は大きいだろう。
 さて、肝心の展示の方について言えば、前半のプラスチックの一般的な歴史のコーナーの博物学的な歴史年表的展示も比較的判り易い上に楽しく、更には倉俣史朗の透明アクリルに羽根が舞う様にあしらわれた椅子、エットーレ・ソットサスの真赤なボディに黒いキーのタイプライター、ベルナー・バントンの曲面の連続だけで作られた色鮮やかな椅子からベ@‐Macに到るまで優れたデザイン系のものの展示もなかなか見栄えがし、楽しみながら自然とプラスチックの歴史の流れを頭に入れられ、心地良い。
 勿論美術館らしく、後半のプラスチックを用いた美術のコーナーは当然のことながら充実している。
 透明なフレームから透明な細い糸が無数に張られ、まるで透明な線で塗り潰された面が消え入りそうな中にも独特の緊張感を漂わせるナウム・ガボの“空間に於ける線的構成No.1”(1940年代)は、透明感と可塑性に満ちたプラスチックの可能性を生かした見事な作品で、その後のプラスチック美術の発展を予感させる。
 しかし、その後は余り適切な作品が無かったのか出品作は、透明なポリエステルを卵上の形にしてその中に様々なガラクタを封じ込めた中西夏之の“コンパクト・オブジェ”や、絵を描く代わりに車の形に型押ししたポリエステルを緑色にプリントした紙の上に付けたクレス・オルデンバーグの“プロフィール・エアフロー”等の1960年代まで時代が飛ぶ。
 この他にも透明なポリエステルにボールベアリングを封じ込めた“スモール・アルファ”や絵の具のチューブを封じ込めた“ウルトラ・マリンブルー”等のアルマンの作品までは、透明で自由に成型出来るプラスチックの素材感が醸し出す幻想的なビジュアルを特徴とする作品が多い。
 ところが、こうした傾向は1980・90年代に入り一変し、プラスチックを着色せずにそのままの素材感で用いるのではなく、カラフルな玩具や様々な容器に代表される大量生産された安価な日常用品の象徴として用いる作品が目立ち始める。
プラスチックのカラフルなゴミを集めてそれを壁に新郎新婦のシルエットを描く様に並べたトニー・クラッグの“ウェディング”(1982年)、量産品の真赤なプラスチックのアングルを大量に並べ四角い形にしたカール・アンドレの“レッド・エヴァ・アダムス”(1983年)や、大量のウルトラマンシリーズの人形をバンザイさせて部屋の角の直角にされた鏡に向かって並べ、結果として1/4の円が日の丸状に見える柳幸典の“バンザイコーナー”(1991年)、子供用の組立用玩具レゴ・ブロックを用いて彫刻を組立てた中原浩大の“レゴ”(1990年)、量産した半球形の凹凸が無数にあるプラスチックの板を販売したキットを購入者自身がプラモデルよろしく組立ててそれを作家が認めた場合に作品となる石原友明の“I.S.M.Kit”(1991年)等はそうした傾向の代表といって良いだろう。
しかし、近年になって今度はプラスチックの発色性の良さに着目し、それを作品に取り込む傾向が見られる様になって来ている。
柔らかなシリコンゴムに明るい色に着色してタラリと上の方から垂らしたり床にペロンと広げてみたりして空間全体をポップなイラストの様なイメージに変えてしまう松井紫朗や、黄色いプラスチックのシートを窓ガラスやショーケースのガラスに貼って光の色を変え普段とは全く違った表情を空間に与える和田みつひとのインスタレーションや、カラフルな石鹸を模したプラスチックを無数に壁に飾った横溝美由紀のインスタレーション等は、プラスチックの鮮やかで均質な発色あっての作品であり、まさにこうした傾向の代表的な作品といって良い様に思われる。
この様にプラスチックを素材とした美術と言っても社会の変化と共にプラスチックを用いる意味も、用いられるプラスチックも大きく変化しながら変り続け、今日に到っていることがスムーズに理解出来る…そんな展示は、美術に於ける最大のプラスチック利用であるアクリルペインティングへの言及が全く無い点等多少物足りなさも残ったが、まさにプラスチックの時代を振り返るに世紀末に相応しい展覧会といえる様に感じた。
(12月10日(日)まで)

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「ポーラー‐カールステン・ニコライ&マルコ・ベリハン」(ヒルサイドテラスプラザ・東京・代官山)
東京都渋谷区猿楽町29-18ヒルサイドテラス駐車場地下
東急東横線代官山駅より徒歩3分。
代官山駅表口前の道を右へ進み最初の信号を渡って左へ行き、最初の大きな交差点を右折して旧山手通りを暫く行った左手のヒルサイドテラスの駐車場の地下。
キャノンアートラボ ホームページ

<コントロール出来ない世界の不気味さ―ネットの荒波にさらわれて…漂流の世界へ>
 湯たんぽを思わせる固い殻に入ったセンサーを抱える様に持ち歩き、それを乳白色の半透明な幕で四方を覆われ床も真白な明るい空間の中に二人一組で入って行く。
 中を数分間動き回った後、四角い空間の片隅に一列に置かれた座布団の上にセンサーの反応を頼りにセンサーを置くと、参加者の動きによって色々な処を動き回らされたセンサーが集めた情報を元にネット上を検索して来た結果を元に!?モニターに映し出された5つの選択肢の中から1つを選ぶと画像が幕に映し出されたり、電子音が鳴ったり…
 と言っても決して私達参加者の動き等に直接的に反応する訳でもなく、むしろそれを元に検索したネット上の情報からアトランダムに展開して行く中で、選択肢はどんどんと奇妙な混沌へと陥り、私達は自分達とこの装置の反応との間の相関関係が判った様な判らない様な奇妙な状態へと落とし込んで行く…
 その行き着く先は混沌とした世界なのか、それとも結果として何らかの均衡点で何となく落ち着くのだろうか?
 殆ど偶然性のみに支配されたこの世界の混沌さは、将来の見え難い現代社会と同様に私達を手応えの無い不安さへと導く。
 将来どうなるのだろうか・・・と。
(11月6日(月)まで)

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「尹熙倉」(ギャラリーキャプション・岐阜・柳ヶ瀬)
〒500‐8828 岐阜県岐阜市若宮町5−12丸平ビル2F TEL 058‐265‐2336
名鉄名古屋本線&各務原線新岐阜駅、または、JR東海道線&高山線岐阜駅より金華橋方面行きバスに乗り、柳ヶ瀬バス停(金華橋通り=高島屋側)で下車そのまま道なりに進んで最初の信号を右折して直ぐ左側のビルの2階。
ギャラリーキャプションホームページ

<焼き物の質感のみを表現する絵画と彫刻>
陶器と木が溶け合う様に一体化しているような不思議なイメージのオブジェがギャラリーの壁に掛けられていたり、陶器を思わせるしっとりとした淡い色合いのシックな感じのペインティングが掛けられていたり…
そう見えるのはある意味では正しいだろう。
これらの作品は何れも、自ら焼いた陶器を臼で挽いて細かく砕き、それを絵の具の顔料代わりに塗るという尹熙倉独特の技法で、色彩を焼き物で可能な淡い色彩に限定すると共に、石臼挽きの粒の大きさがもたらす物質感が木やキャンバスの表面に与えられているからである。
実際こうした技法は、焼くという行為の関係で良くも悪くも色鮮やかには成らないし、徹底的に細かく砕くことで如何にも絵の具らしい滑らかさを出したりすることが出来ないざらつきを残してしまう…そんな欠点とも取れる性質持つ。
しかし、尹熙倉はそれを逆手に取り、しっとりと落ち着いた色合いと素朴さを感じさせる肌合いを生み出し、それを作品の魅力とすることに成功している…と言って良いだろう。
そう、焼き物が持つ素朴な味わいそのものの様に…
(10月28日(土)まで)

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「上海ビエンナーレ2000−上海 海上」(上海美術館・中国・上海・人民公園)

<現代の租界としてのビエンナーレ―今の中国らしい奇妙な解放>
今年3回目を迎える上海ビエンナーレだが、海外の美術家やキュレイターを迎えて本格的な国際ビエンナーレとしては初めてとなるこの展覧会だが、長年に渡り現代美術を弾圧して来た中国だけに、海外から一流の現代美術作家達を招待したにもかかわらず、中国側の作家は今年福岡アジア美術館・埼玉県立近代美術館等を巡回した現代中国の絵画展の様に権力者を公然と賛美する体制べったりの如何にも体制翼賛的作家こそ居なかったものの、旧態依然の技巧的レベルのみ高い画家が中心のラインナップであり、まるで外国人租界と古い中国の町並みの並存という上海の伝統を思わせる!?ミスマッチは残念ながら誰の目にも明らかであった…まさに“上海 海上”の展覧会名の様に。
何しろ、蔡国強やホアン・ヨンピンやヤン・ペイミンといった中国出身の現代美術家も出品こそ許されたものの、カタログ等では現在居住・活動しているアメリカ・フランスの作家として記載されており、天安門事件などに関った黄鋭達を帰国禁止にし続けている例に代表される反政府的な表現への警戒感から生じた現代美術非公認の姿勢は余り変化が無いことを明確に示していて、事実上資本主義経済を導入しながらも社会主義市場経済という建前を崩さない経済分野と同様の奇妙な半鎖国体制が続いていることを内外にアピールするのも忘れてはいない…そんな如何にも現代中国的な国際美術展というのが、この上海ビエンナーレ全体に対する率直な感想だろう。
とはいえ、海外作家たちの作品のレベルは国際ビエンナーレとしては物足りないかもしれないものの、ウィリアム・ケントリッジ、アニッシュ・カプーア、ホアン・ヨンピン、ヘリ・ドノ、森万里子等を中心にかなりのレベルの展示をしていて、私達が見てもなかなか楽しめる。
それだけに、中国の人々がレベルの高い現代美術の作品と、中国の技巧面のみクオリティの高い絵画作品を否応無しに比較しながら見ることになる展覧会は、中国の人々の美術への意識を大きく変えて行く契機になるのは間違いなく、今後の中国のアートシーンへ与える影響力と微妙な濃淡いう意味で、後になってターニングポイントとして美術史に刻み込まれる可能性は十分だろう。
何しろ、表と裏の使い分けで何食わぬ顔して時代に順応して行くのが、数々の政権の変遷をくぐり抜けてきた中国4000年の人民の逞しさは健在なのだから…
そんな現代中国の国際アートシーンへの姿勢をもろに見られる…そういう楽しさは欧米などの国際展とは違った楽しみと言って良いのではないだろうか。

<崩れ行く楼閣に込めた近代への複層的な皮肉…ホアン・ヨンピン>
上海美術館正面玄関から見て右側の展示室の中央にそびえる香港上海銀行の如何にも洋風(=植民地風)の建物を模った巨大な砂の彫刻(インスタレーションといって方が適切だろうか)は、わざと単に水で固められた危うい固定方法とすることで、オープニングの時で既に一部が崩れ始める様にされており、そこから来る如何にも砂の城らしい危うさと、堅牢な石造りの西洋建築のイメージとの鮮やかなコントラストを描き、極めて強烈な皮肉を込めたイメージを創出している。
しかも、その作品が発表されているのが、英国系の元競馬場のジョッキーハウスである典型的な植民地建築の一つであると同時に、現在は上海市政府の管理下にある上海美術館というまさに近代中国の歴史を象徴する建物の中なのだから、その皮肉さは一層強烈である。
そんなホアン・ヨンピンの作品は、中国への列強の植民地支配の先鋒として英国の帝国主義の象徴として君臨した香港上海銀行というモチーフを用いることで、列強による中国を含めた世界での植民地化とその崩壊という歴史への皮肉を込めているのは勿論だが、返す刀で、当時も今も変らぬ強権的な政府の下での限定的な国際化(このビエンナーレを含めて)…という中国政府のコントロール下での新たな外国人租界を思わせる政策を採り続ける中国共産党政権の危うさや、今日の世界を席捲する国際金融資本や国際文化(テレビ・映画・漫画・美術を含む)の活動の危うさ等をも暗示している複層的な作品なのである。
それだけに、英国の中国への植民地政策への皮肉のみを受け取ってしまうのか、それとも中国政府への皮肉も感じ取れるのかどうか?…日頃政府批判的な美術作品を目の当たりにする機会の少ない上海市民の反応は一体どうなのだろうか。
こうした表現がフランスの美術家扱いとはいえ政府公認の下でこうして発表できるようになっただけでも解放改革路線の大いなる進歩なのかもしれないが…

<現代美術家・蔡国強の足跡を見せることで…>
 中国出身者の中でもダントツの現代美術家として知られる蔡国強は、彼自身の出世作となった火薬の爆裂の跡を見せる平面作品をそのプロセスを写したビデオ映像と共に美術館の館内の壁面に展示すると共に、彼自身の美術家としての足跡を振り返り、それを写真と共に野外のケース付掲示板に展示した“大衆の為の自我宣伝”を発表し、現代美術というもの自体を見せようとする展示を行った。
 残念ながら中国語の判らない私達にはこうした作品が中国の人々にどの様な印象を与えたのかはよく判らないが、彼らがこれまで接してきた美術とは全く異なるかなり社会的なメッセージ性を持った蔡国強の代表作を生で見てその力を知り、かつ彼の活動が海外で如何に展開されて来たかを目の当たりにすれば、改革解放の進む中で国際的情報にも敏感に成りつつある中国の市民達にとってかなり衝撃的な印象を受けながらも率直な評価を下すに違いない。
 海外のアートシーンとの接点を持とうとしながらもそれを巧みにコントロールしようとする老獪な中国政府を相手にしたたかに戦う蔡国強の母国に投じた一石は、今後どの様な波紋を拡げて行くのだろうか…

<迫り来るリアルな影…ウィリアム・ケントリッジが描く庶民の哀愁>
 真暗にされた美術館の応接室の奥に見える行列の影絵が、まるで目の前で影絵が上演されているのではないかと思える程のリアルさを持ち、それが明るく楽しい行進曲や哀愁に満ちた作家本人が口ずさむ賛美歌等のBGMと相俟って、独特の魅力ある世界をウィリアム・ケントリッジのインスタレーション作品“シャドー・プロセッシグ”。
 決して長くて具体的なストーリーがある訳ではないが、手を伸ばせば直ぐそこにいそうな風に感じさせるほどのリアリティは、見ていて時を忘れるほどである。
 何しろ、明らかに手前側を通る行列と奥の方を通る行列がある様に見えたりする様にわざと影の濃淡が施されていたり、スクリーン代わりのボードを壁から数十センチ浮かせることでもたらされたその奥行きある影の映像は、最早単なる映像としての影として捉えることの出来ない臨場感を持ち、特にケントリッジ本人が口ずさむシーンではその決して上手いとは言い難いくぐもった声と合わさって、まるでそこに哀愁に満ちた歌を歌いながら走り回る市井の人々が生活しているのではないか…と思える程リアルなドラマが目の前に展開している様な錯覚に陥るなのだから…その絶妙な映像と音のコンビネーションは見事と言う他無いだろう。
 やはり、こうした作品が作れるのは、単に極めてレベルの高い様々な技巧のみによるのではなく、生れ育った南アフリカ社会が抱えてきたアパルトヘイト等に伴う社会混乱の中精一杯生きる庶民の生活の雰囲気をそのまま表現したい…というウィリアム・ケントリッジの一般市民への深い慈愛に満ちた精神にあるのだろか?
 時折映像に挟まれるケントリッジ自身がギョロリと目を動かす愛嬌ある眼差しを見ているとそう思えた。

<SF的な神秘の風景−森万里子>
 東京・渋谷のハチ公前の交差点の広場、ロンドンのピカデリーサーカス、ニューヨークのタイムズスクエア、エジプトのピラミッドの前、インカ文明のピラミッドの前、そしてご当地上海の浦東新市街を一望する旧租界地の港沿いの公園など世界各地の著名なスポットに、まるで宇宙から降りて来た様な透明なカプセルの中で、金色のSFチックなコスチュームを身にまとい白雪姫の様にひたすら眠り続ける。
 そんな映像の神秘性を強める様に澄んだ高い歌声が流れ、SF的近未来の風景を思わせるステンレスの枠が輝く円形の曇りガラスのスクリーンを中でこの映像を見ると、その神秘性は一層強く感じられ、あたかもそこが科学の時代の新たな神域の様に思えて来る。
 そう思えるほど、動くもの一つ無い砂漠に聳えるピラミッドというそれ自体神秘的な光景をバックにしても、世界各地の大都市の雑踏の中という対照的な光景をバックにしてもまるで何処でも関係ない様に透明なカプセルの中で神秘的な眠りにつく姿は、民族も地域も時代も俗社会も超越という神の世界の雰囲気を思わせるし、そのSFチックなコスチュームと透明なカプセルはそこに科学的未来的イメージを思わせるし、複数の映像を歪み無くきれいに円形のスクリーンに連続的に4つの映像を上手く連携させて部屋全体をまるで動く壁画の様に思わせる。
 それ位周到に計算し尽くされ、それが徹底されたことがこの“ビギニング・オブ・ジ・エンド”にSF的神秘性というイメージをきっちり構築することに繋がり、その魅力を見事に引き出しているのだろう。
 さすがは森万里子の現時点での最高傑作シリーズである。

<歪んだ鏡面の不思議な魅力…アニッシュ・カプーア>
 巨大な皿を思わせる凹んだ曲面を持つ大きなステンレスが職人達の手で周到に磨き上げられ、それが壁に掛けられたアニッシュ・カプーアのレリーフ!?。
 離れたところから見ると一見鏡面にきれいに磨き上げられているに見えるが、近付いて行くとその表面にある微妙な凹凸が私達の姿を微妙に歪め、立ち位置により微妙に異なって移る自分や背景に思わず頭がくらくらする様な衝撃を受ける。
 一寸横へ動こうが作品に少し近付こうが離れようが、兎に角僅かな立ち位置の違いがそこに写るビジュアルを全く変えてしまう普通の鏡では考えられないその面白さは、実際に前に立って体を揺らしたり色々動いてみたりしないことには判らないだろう。
 やはり、こうした微妙な凹凸自体をコントロールしてこの微妙な視覚効果を作り上げているのだろうか…恐らくその答えはイエスだろう。
 何しろ、孔の大きさや型などを周到に計算し、そこに適度にマットな感じの顔料を塗りたくることでそこの無い孔に吸い込まれそうに思える作品を作り続けてきたアニッシュ・カプーアのことだから、こんな微妙な凹凸ある鏡面の面白さを曲面に組合わせることで歪んで写る世界の異次元を思わせるビジュアルはこれまでの無の世界の表現と同様に、この世に無いビジュアルを作り出そうとする彼自身のコントロールの下にあるに違いない。
 やはりカプーアの異次元的世界の表現力は何度見ても見事なものである。

<雑然とした庶民の暮らしの中から生まれた美術…ヘリ・ドノの皮肉なファンタジー>
 階段を上がって直ぐのロビーの様な空間で、しかも壁面にはマルレネ・デュマスのおどろおどろしい絵が掛けられている…という見るからに癖のある使い難い空間は、普通の美術家であれば嫌がりそうなものであるが、ヘリ・ドノは平気だ。
 社会を茶化す様におどけた感じのキッチュな作品を作る彼にとって、こうした雑音は余り邪魔にならないのだろうか。
 それどころか逆にそうした展示空間の雑音を楽しむかの様にヘリ・ドノは周りの雰囲気すらも取り込み、インスタレーションの一部として用いてしまっている様な印象を受ける。
 そんな彼に掛かればマルレネ・デュマスのおどろおどろしい描き方の人の顔も、階段のデコラティブな手摺も、配線剥き出しで薄汚れた天使達のキッチュで皮肉っぽい姿を強調する為の書割の一部として取り込まれてしまうのである。
 その結果あたかもおどろおどろしさすら漂うマルレネ・デュマスの描く貧しい人々の願いを叶え様と、キッチュなガラクタ生まれの天使達が権力者の住む館の中を頼りなさげに飛んでいる…かの様に見える面白いインスタレーションが出来上がってしまうのである。
 ニュートラルな空間など無いインドネシアの庶民の生活の中に息づくワヤン・クリッと呼ばれる伝統的な影絵芝居で鍛えられた彼の経験をベースにすると、下手にホワイトキューブの美術館よりも様々なものがある雑然とした空間の方が上手く活用できるのかもしれないが…ホワイトキューブに慣らされ過ぎて、混沌の中での作品作りが弱くなりがちな先進国の美術作家にとってヘリ・ドノと一緒の部屋で展示するのは自殺行為。
 デュマスは作品を展示する場所を広げようとしてその罠に自ら嵌ってしまい。ヘリ・ドノの引立て役に終わっている様に思えた。
(1月6日(土)まで)

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「不合作方式−FUCK OFF」(イーストリンクギャラリー・中国・上海・上海駅)
<非合法な活動としての現代美術―弾圧が生む過激な表現>
 他の国の国際展と同じく上海ビエンナーレへのカウンターエキジビジョンが幾つか行われていたが、その中では最も規模が大きくかつ最も挑発的な展覧会がこの不合作方式だろう。
 上海駅近くの橋を渡って直ぐ堤防沿いの道を暫く進んだ古い倉庫の1・2階を用いた大きな空間の中に入ると、いきなり肉の腐った様な匂いが鼻につき始める…黄岩の“肉山水”の臭いである。
 と言っても入って直ぐの場所にあるのではなく一番奥にある作品なのだが、中国風に醗酵させた豚肉に刺青の如く絵を山水画的な絵を描き込んだ作品なのだから、その臭いの強烈なことと言ったら…
 中国の山水画の様な伝統的な絵画が腐っているという批判なのか、それとも現代美術をやる自分達が腐った人間と見なされている現状を皮肉ったものなのか、それとも消費されるものとしての肉と美術を掛けて皮肉ったものなのか…様々な考えが頭を過ぎる。
 この作品に限ったことではないが、こうしたエグイ部分を作品の主要な要素として持つ作品はこの他にも多い。
 1階入り口の部屋の2室目側の壁際に展示された川等に何やら液体を注ぎ込む作業風景を映したビデオが流れる作品は、彭禹による人油を流している作品だし、黄磊の人体をぶった切った人体版ダミアン・ハースト風の作品、何岸の人の皮膚に出来物の様な物を創作して病気風の写真を撮った作品等数多く見られたが、琴嗄の作品の気味悪さは群を抜く。
 ひどい病に冒されたかの様に全身に出来物の出来た女は浴槽の中でぐったりし、男は風呂場で壁にもたれかかって目を閉じている写真作品はまさに身の毛がよだつ様な迫力。
 性病治療の張り紙のやたら多いことに象徴される性病の蔓延した中国の現状への強い警鐘を鳴らす作品なのだろうか?それとも単なる過激さのみを狙った作品なのだろうか?作家と話すことが出来ない為に確かめ様が無かった。
 一方エグくない作品の中では会場周辺の野外の壁に簡略化された横顔の輪郭を一筆書きで無数に書きなぐった張大力の“対話”というウォールドローイングが中国らしからぬゲリラ的な展開で目立っていた他、高層ビル群をバックに頭から血を流しながらレンガを手にして今にも殴りかかりそうなスーツ姿の狂ったサラリーマン風の男を撮影した楊福東の写真作品“第1級知的分子”が現代中国の社会主義市場経済の矛盾と混乱を思わせ興味深かったし、真暗なテントの中で微かに映る暗闇の中で化粧をする丸顔の女の子(本人らしい)の顔を月に見立てて鑑賞する梁玥の“全月蝕”がそれまでの映像作品とは全く違ったスタイルで印象深かった。
 なお、この展覧会は公安当局からカタログを許可を受けずに発行したことを理由に中止命令を受け、会期途中で終了させられた…とのこと。
 やはり、中国では今尚現代美術は非合法な活動なのだろうか?

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100/11/5 (日)


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「光の習作−有地左右一+笹岡敬」(夢創館・神戸・王子公園)
〒657-0805 神戸市灘区青谷町 2-1-3 TEL (078)802-8822 FAX (078)802-8881
E-mail Mssohkan@aol.com
阪急王子公園駅より徒歩8分、または、JR東海道線灘駅より徒歩12分。
王子公園の中央を貫く遊歩道を上り、突き当たりの道を少し左に行った最初の信号を渡ってすぐのコンクリートの建物。

<織り成す色と光−リフレックス・シグナル>
青・黄・赤の3色の強烈な光が交互にギャラリーの室内を覆い尽くす…そんなイメージを受ける有地左右一+笹岡敬の“リフレックス・シグナル”は、その名の通り道などにある信号機をそのままギャラリーの中に持ち込みその光の反射を見せる極めてシンプルな作品である。
だが、そんな何処にでもある見慣れたシンプルな単色の光といえども、至近距離に置かれ空間全体を覆う様に用いられるとそのイメージはがらりと変わり、全く別のニュアンスを帯び始める。
何しろ、シグナルを明快にドライバーに知らせる為に直進性を強められた光は、空間全体を覆う…という強烈なイメージとは裏腹に、中に入ってみると人影すらもやわらかく壁に写し込みながら意外と穏やかに照らしているし、その上信号が切り替わる際に現れる2つの色の混ざり合いながら徐々に変化して行く時の微妙な光の色合いは、その色彩の基本である青・黄・赤の3原色の単色の光と合わせて、光と色彩の成り立ちを全身でドップリ浸かりながら、時系列の中で味わえてしまうという面白さがあるのだ。
そう、単に青・黄・赤のシグナルが単色で光っている…という一番時間が長く判り易い部分よりも、それが切り換って行く本の僅かな時間の間に見られる微妙で移ろう色調の光りこそが、この作品の醍醐味なのである。
(11月19日(日)まで)

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「ルッペ・コセレック‐art-appeal」(CAS・大阪・天満橋)
〒540−0038 大阪市中央区内淡路町2−1−7都住創内淡路602
Phone 06.6941.3237 Fax 06.6945.4709 E-mail: master@cup.com
地下鉄谷町線&京阪電鉄本線天満橋駅より徒歩7分。
京阪天満橋駅(叉は、谷町線天満橋駅4番出口)から谷町筋を南へ行き、リブロ(書店)を過ぎて一つ先の交差点を右に入って暫く行った右手の少し変わったマンションの6階。
CASホームページ

<片隅のさり気無いインスタレーションが惹きつけるもの…>
巨大な石造りの城の石積みの間の目地の部分から、様々な建物の窓際や天井近くの一寸した突起、はたまた交通標識の様なものに至るまで世の中の片隅…としか言い様が無い様な誰も見向きもしない場所に、小さな人形をさり気無く置くことを作品とするシリーズや、電話ボックスの片隅に連絡先の判る日記帳の切れ端をさり気無く落して来るシリーズなどアートアッピール…という言葉とは裏腹に、日常の中にさり気無く溶け込んでしまい、たまたまふと見た拍子に気付きでもしなければまず見落としてしまう作品に代表される様に、ルッペ・コセレックは常に見る側がややもすれば見落としかねない部分に意外な視点のコミュニケーションを持ち込む活動を続けて来たドイツの美術家である。
それだけに、今回も小さな人形を大阪城や京都や丹波篠山等に設置して回ったり、本物の紙幣に拾得謝礼金というゴム印を押して街中に落して来たり、世界各地のアーチストに小さなファイル状のギャラリーを多数作ってそれをファイルボックスに入れてギャラリー内に置いたり、ビールとコーラの空き缶で日の丸を作って今の日本の西洋化をさり気無く皮肉ったり…何れも劣らぬさり気無い作品ばかりが並んでいる。
果たして、街中で片隅にひっそりと置かれた彼の作品を見る人間などいるのだろうか?…等とつい要らぬ心配をしてしまいたくなる程であるが、ルッペ自身の弁によれば少なくともヨーロッパに於いては案外作品を見て貰えるばかりか、実際に日記帳の切れ端に書かれた彼の連絡先へコンタクトを取って来る人も少なくないとのこと。
やはり、人は意外なものを片隅で見付けると“これは俺だけが知っているのだ”というある種の自尊心をくすぐられ、つい興味を持つのだろうし、しかも、そこに物語性を与える人形やメモ書きがあるのだから尚更惹きつけられるに違いない。
そう、彼はルッペ・コセレックはそんな人の心理を見透かし、世の中の片隅を作品化するプロジェクトを続けて来たのである。
だからこそ伊達に片隅にこだわり続けてきたのではなく、計算されたビジュアルやストーリーの構成を意識的に行い、それを見た人々をニヤリとさせる効果が生まれるのだ。
それこそが、ルッペ・コセレックの強みであるに違いない。
(11月17日(金)まで)

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「杉山知子−watashi no iru basyo」(サイギャラリー・大阪・北浜)
〒541−0041 大阪市中央区北浜2−1−16永和ビル6階 TEL 06−6222−6881
地下鉄堺筋線&京阪電鉄本線北浜駅より徒歩1分、または、地下鉄御堂筋線&京阪電鉄本線淀屋橋駅より徒歩5分。
北浜の交差点(堺筋と土佐堀通の角)から東(淀屋橋方向)へ少し行った右手(川沿い)のビル(“ぢ”の看板で有名なヒサヤ大黒堂の西隣)の6階。

<素朴さと上手さの絶妙なバランス…優しく暖かいまなざし>
幹の部分が黄一色やピンク一色で鮮やかに、そしてそこから出る突き出た部分が茶色一色に塗られ、上の方に葉を思わせる緑色に塗られたまるで木を描いた可愛い挿絵の世界がそのまま立体化された様なオブジェがギャラリーのサロン部分に点在し、窓にもそんなお絵描きチックな切絵が貼り付けられている。
そんなお絵描きの世界そのままの可愛らしさという杉山知子の絵画作品にも共通するイメージと言って良いだろう。
何しろ、今回の展示室コーナーに展示された絵画作品も含めて、杉山は流麗な線で描くこともしないし、塗り方も決して滑らかで手わざの残らない様にするのでもなければ、ゴッホ等の様に荒々しくタッチを強調するのでもなく、ただただ温かみとやさしさの感じられるマットで素朴さを感じさせる方向で作品を作り続けているからである。
かといって彼女の作品がアウトサイダーアートに見られる様なヘタウマ的面白さかというと、それも違うだろう。
何しろ一見素朴で温かみを感じさせるラインも決してぐらついたり形が乱れまくっているわけではなく、むしろよく見ると上手さを感じさせるきれいなラインに仕上がっているし、塗り込めた部分も決して荒っぽい塗り斑等無い様にきちんと下塗りが施されているのだから…
そう、杉山知子はその技量を緊張感ある画面の構築に振り向けるのではなく、素朴さの中に潜む荒々しさを取り除き、誰もがスーッと受け入れられる様な優しさを感じさせる絶妙なバランスに様にする為に用いているのだ。
つまり、常に他者に対して暖かい目線を持って接する自身の流儀そのままに、作品作りに於いても、明るくて温かみのある雰囲気を好み、それを実現しようとしているのだ…あたかもストレスの大きい社会から人を守ろうとするかの様に。
(11月4日(土)まで)

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「ウオルター・デ・マリア‐Seen/Unseen Known/Unknown」(直島コンテンポラリーアートミュージーアム・香川・直島)
〒761‐3110 香川県香川郡直島町琴弾地 TEL 087‐892‐2030
JR宇野線宇野駅前の宇野港、または、高松港から四国汽船フェリーで直島宮之浦港にて下船、直島文化村送迎バスで約15分。
直島文化村ホームページ

<自然と作品が織り成す光景…サイトスペシフィックな作品を生み出すもの>
瀬戸内の海に臨む直線主体のコンクリート打ち放しのシャープな建物の中に、天井に迫るかと思える程大きく、今にも転がり出しそうな位ほぼ完全な黒い石で球体が、両手を広げた位の間を空けて二つが左右対称になる様に置かれ、その脇に木目が浮き上がる様に金箔を貼られた三角・四角・五角の3本の柱を持つオブジェが左右の壁に接してこれまた対称になる様に置かれている。
その余りにも大きく余りにも見事に球に磨かれた石は、形から来る動き出しそうなイメージの一方で、石の素材感から来るどっしりとしたイメージが感じられたり、黒という一見光を吸込んで何も写しこみそうにないシックなイメージの一方で、実際にはその表面の徹底的な磨き上げの結果として周囲の風景や人々等を映し込んでいたり、球に映り込むことで湾曲した筈の光景が、海の向うの遠い景色の故に変な歪みには感じずに見られたり…
それに加えて、球を挟んで左右対称に置かれた金箔張りの金色の木柱も、室内の一番奥に置かれた故に、その形(三角・四角・五角)の故に見る角度によって異なる強く光る面と余り光らない面のコントラストがくっきりと見えて来たり…
そんな風に光の反射の微妙さをきっちりと計算し尽くして設置されたウオルター・デ・マリアのインスタレーションだけに、時折移動して立つ位置によって微妙に変る石球へ映る瀬戸内の風景や黄金の柱の輝きを味わいながら、その中でじっくりと過ごしていると、完全なる球・三角柱・四角柱・五角柱といった徹底的な人工性と、石材や木材の持つ質感や周囲の瀬戸内の景色といった自然の織り成す見事な光景のハーモニーに思わず息を呑まずに入られない。
しかし、いくら計算し尽くすといっても、一体どうやってサイトスペシフィックでありながら、そうした見事なまでにコントロールされたビジュアルを生み出すことに成功しているのだろうか?
やはり、何度も現地を訪れて把握した野外を含めた光景全体のバランスを考慮した作品の大きさと配置に加えて、素材の質感と形と表層の滑らかさといった様々な要素を絶妙なバランスで配することで、作品に反射する光や映り込む景色の徹底的なコントロールを実現すると共に、静寂さの中にエネルギーを感じさせる程の緊張感を作り出した辺りがそのポイントなのだろう。
そんななかなか出来るものではない徹底的な空間コントロールを実現して見せたデ・マリアの木目細かな空間構成力が存分に味わえる素晴らしい展示は、それだけでも見に来る価値があるに違いない。
(常設展示)
(2000年12月9日(土)〜10日(日)直島会議V開催予定)

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「ベネッセ・アイランド直島文化村常設展示」(直島コンテンポラリーアートミュージーアム・香川・直島)
〒761‐3110 香川県香川郡直島町琴弾地 TEL 087‐892‐2030
JR宇野線宇野駅前の宇野港、または、高松港から四国汽船フェリーで直島宮之浦港にて下船、直島文化村送迎バスで約15分。
直島文化村ホームページ

<溶け込みそうな中にある静寂さと緊張感…という美意識−片瀬和夫“茶のめ”>
ベネッセアイランドの桟橋に降り立ちそこから見える野外の大階段を登って行くと、海の見える芝生広場の一画に設えられた石組みの井戸の上に、鮮やかなシンプルなメタリックブルーのボールが目に飛び込んで来る…片瀬和夫の“茶のめ”という作品である。
青空をバックにした青というと、つい空に溶け込む様に…というイメージを思いがちだが、片瀬の青は決してその様なことは無く、むしろメタリックブルーでシンプルな半球形の茶碗(ボール)という徹底的に人工的なシャープさを追究しており、静寂さの中にも背景から自立した明確な色彩とラインを生み出し、凛とした気品ある雰囲気を漂わせている。
それのみならず、下部に荒々しい自然を思わせるごつさの一方で人工性を意識させる四角さを兼ね備えた石組みを用いることで、瀬戸内の穏やかさを感じさせる自然のイメージとの対比や、シャープな人工性を意識させるメタリックブルーのボールとの対比をも同時に作りだし、自然と人工の間にある微妙な関係性を想起させる見事なビジュアルの創出にも成功しており、シンプルな中にも極めて複層的な作品に仕上がっていると言って過言ではないだろう。
やはり、自然さや素朴さを感じさせる素材を用いながらも、決して溶け込み過ぎることなく、あくまで自然に対して毅然として対峙してコントロールする…という秀逸とされるサイトスペシフィックな作品が持つ要素を着実に押さえている作り込みの徹底振りが、そうしたイメージの実現に一役買っているのは間違い無いだろうが、かといって、片瀬のそうした姿勢の根源にあるものは決して単なる欧米模倣の野外彫刻の伝統にのみ則っていると見るのは早計だろう。
何しろ、決して人工的で自然と分別される原色のペイントを用いることなく、青い空を背景に青を、土や冬場の枯れた芝の色という背景の色に近い赤茶けた石というややもすると溶け込みかねない色彩を用いながらそれを実現した辺りに典型的に表れている様に、侘び寂びという茶道の千利休等の先達に近い日本的な精神性もベースにある感じられるからである。
そう、正に良い意味での和魂洋才…の美術という側面も片瀬和夫の作品の魅力の源泉…まさに“茶のめ”なのだ。

<天から落ちて来た大福餅の様に…柔かさの希求−安田侃“天秘”>
真四角な巨大な箱の底に、恰も天から落ちて来てぺしゃんとなった大福餅を思わせる柔かな曲面を持つ大きな白い物体が二つ置かれることで、その空間全体を柔かなイメージで満たすインスタレーションがある…安田侃の“天秘”である。
直線的なコンクリート打ち放しを存分に生かした建築で有名な安藤忠雄の設計だけに、このベネッセハウスには、至るところに硬質な空間があるのだが、その最たるものが空の部分のみが開いた一辺9mのキューブ状のコンクリート打ち放しのテラスであるが、安田侃はそこに何と石の彫刻を置くことで一転して柔かなイメージを生み出すことに成功しているこの作品は、物質自体の固さを引き立たせるのではなく、むしろその表面の形や質感が持つ柔かさのイメージのみを強調することでその質感を反転し、周囲の壁や床面すらもそれを際立たせるキャンバスの地の如く見せてしまうのである。
それだけに、そんな中に自分自身を置いて見ると…廻りの壁の強さよりも柔かな石の曲面に惹かれ、どこか柔かな空気に包まれている様に思えて来るのも当然かもしれない。

<風に舞う絵画の様に−ジョージ・リッキーの動く彫刻>
ドローイングを思わせるヤスリの跡のある銀色に輝く3枚のステンレスの四角い板が、一つの角で地面に接する様に海の見える芝生広場の中ほどに置かれ、自然を背景にたおやかで美しい煌きを見せてくれるジョージ・リッキーの“3枚の正方形”。
暫くの間ボーっと眺めていると、ヤスリの跡で変化を付けられた表面の煌きがゆっくりとした動きの為に、刻々とその光り方を変えながら輝いている様に感じられて来る。
勿論これは単なる錯覚ではなく、この作品が完全に固定されたものではなく、地上部分が受ける風で生れる動きと、地下に設置された水槽に伸びる水かきのような部分が受ける水の抵抗で、極めてゆっくりとしかも風の変化とは微妙なズレをもって動き続けているのである。
だからこそ、表面のドローイングを思わせるラインの反射の微妙さとも相俟って、余り風がない時だと果してそれが動いているのか、それともきっちりと固定されているのか判らないくらいに見える程の僅かな変化は、見る側に常に微妙に変化するビジュアルをもたらし、周りのリアルな風景すらも吹っ飛ばしてどこか幻想的な気持ちにさせてしまうのである。
こうした特長は、ベネッセハウスの本館の一角の庭に設置されたステンレスの巨大な針を思わせる4本の鋭い棒が風に吹かれて宙に舞う“フォー・ラインズ”にも共通している。
この作品も月明かりなどで見るとまさに瀬戸内の空や海や島の緑などを背景に4本の線を描いたかの様に見え、しかもそれがゆっくりと変化して行くという実に幻想的な絵画を見ている様な夢見心地が味わえるのだから…
そんな、風と戯れて自然そのものをキャンバスに絵画を描き上げてみせるのがジョージ・リッキーは、サイトスペシフィックということを強く意識することで、むしろ画家という方が適切なほど絵画性に満ちた彫刻家といえる面白い構図を生み出し、私たちを幻想の彼方へと運ぶ。
そんな、自然がキャンバス…という言葉がピッタリ来る様な魅力がゆったりと味わえる展示です。

<絵画と彫刻とインスタレーションと…美術は何を描くのか‐ジェニファー・バートレット>
弧を描く砂浜に打ち上げられた黄色と黒の2隻のボートを描いたペインティングの手前に、その絵の中にあるのと同じ形をした黄色と黒のボートが2隻の位置関係もほぼそのままに置かれているのみならず、絵と反対側の窓から外を見ればかなり離れた場所にある直島の実際の絵の中と同じ様な弧を描く砂浜に同じ様に黄色と黒のボートが置かれている。
そんなジェニファー・バートレットの“黄色と黒のボート”を見ていると、一体どれを元でこの3つは生まれていったのだろう…思わずそんなことを考えずにはいられない。
実はジェニファー・バートレットが最初に作ったのは、壁に掛けられたペインティングなのだが、それ自体も実際の風景を写生するのではなく、写真を元に構図をバートレット自身が再構成したものであり、決して現実のものではない頭の中のテーマ=概念としての自然の風景を描き出しているに過ぎないのだ。
そして、それを元にリアルな物体として恰も現実の様に作られたモデルがリアルサイズのボートであり、更にそれを元にして現実の風景をその絵画の中と同じにする為に置かれたのが野外のボートなのだ。
つまり、私たちが見ているものはディズニーランドに於ける様々なアトラクションや舞台の書割と同じ作られた偶像としてのビジュアル…即ち、写実ではない物語としての絵画・彫刻・一種の庭園というのが、この作品なのである。
そう思ってこの3つの“黄色と黒のボート”を見ていると、私たちがリアルな自然と思っている光景すらもきちんと客観的に見ているかどうか怪しく思えてくる。
記憶になればどこか勝手に自分なりに再構成してしまっているのと同様に…
(常設展示)

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「直島・家プロジェクト」(南寺、角屋・香川・直島)
〒761‐3110 香川県香川郡直島町本村地区 TEL 087‐892‐2030(直島文化村)
JR宇野線宇野駅前の宇野港、または、高松港から四国汽船フェリーで直島宮之浦港にて下船、直島文化村送迎バス南寺バス停下車(角屋は徒歩3分、南寺は徒歩1分位)。
直島文化村ホームページ

<角屋‐宮島達男−近代技術を用いた近代の超克…古民家と仏教哲学と電子技術と…>
 直島の中でも古くからの集落である本村地区の古民家を再生してそこに美術作品を半恒久的に設置するという“直島・家プロジェクト”の第一号として作られたこの作品は、昔ながらの木の引戸の門を入って直ぐの“達男垣”と名付けられたデジタルカウンターの数字を思わせる隙間を持つ竹垣から始まる。
 技法もデザインも最早がんじがらめで創意工夫の余地がないと思われがちな極めて伝統工芸的な竹垣に、何と近代合理主義の象徴とも言うべきデジタルを想起させる意匠を凝らしたこの作品は、伝統と近代、自然素材と人工素材の対立を超越するのみならず、動き続けるカウンターのイメージと静止する竹垣という動と静のイメージをも併せ持ち、目まぐるしい進歩の狭間で、逆に自然や伝統へ回帰することで新たな方向性を見出そうとする一種のルネッサンス思想=温故知新のイメージを強く受ける。
 勿論こうした要素は母屋の脇にある倉の2階で座布団に座って見るデジタル数字が書かれた掛け軸を見るインスタレーションや、一種の古民家再生プロジェクトとしてのこの家プロジェクトに共通して言えることである…
 そんな竹垣を抜け、母屋へ入ると玄関の土間の脇にある暗い部屋の床にデジタルカウンターが数字をカウントしながら、蛍の様に光っているのが見える。
恰も古い民家の部屋に上がるかの様に靴を脱いで部屋へ入ると、周囲を取り囲む板の間の部分を除く真ん中の四角い部分が小さな人工河川のように流れる水が湛えられ、その底に沈められたデジタルカウンターが各々マイペースで時を刻み続けるインスタレーションは、闇に浮び上がる光の美しさのみならず、せかせか忙しげに動き回っているかの様に目まぐるしくカウントするものもあれば、ゆっくりと着実にカウントを重ねるもの、そして0にあたる時間にフッと儚く消えてしまったり…あたかも社会の縮図を見ている様なイメージを想起させられてしまう要素もあり、静かにその様子を眺めていたい気持ちにさせられる。
まるで、蛍か町の夜景でも眺めている様な美しい光に心を奪われながらも、同時に本当にこんなにバタバタと忙しげにすることが幸せなのだろうか、そうは言ってもゆったりしたペースに自分が向くのかどうか…等と、つい自分に引き比べて人の生き様に思いを馳せさせられるこのシリーズの真髄が、部屋でゆっくりと座って味わえるのがここの醍醐味だろう。
その他にもこの角屋の母屋にはもう一つ作品が仕掛けられている…電気で曇ガラスになったり、透明なガラスになったりする液晶ガラスを用いて作られたデジタルカウンター機構付の窓ガラスである。
他のデジタルカウンター作品と同様に3つのデジタルカウンターが各々ペースで数を刻み、0に当たる時は曇ガラスになって外が見えなくなるこの窓は、その風景をデジタルカウンター状に切取って見せるのみならず、デジタルカウンター状の光を透過させ、土間に陽光で出来たデジタルカウンターを描き出す。
そんな“直島カウンターウインドウ”と題された作品は、液晶ガラスによるデジタルカウンターという極めて現代的な素材と形を持ちながらも、恰も茶室建築等に於ける障子窓の意匠を凝らした窓を思わせたり日時計を思わせる要素を持ち、自然の風流を巧みに取り込みながら美的な世界を作り上げてきた日本の伝統文化の香り…を感じさせずには置かないほど、しっくりと古民家の土間に違和感無く嵌り込み、茶席に於ける禅的哲学性を持った遣り取りを思わせずにはおかない。
まさに角屋全体が古民家らしい味わいを残しながらも、デジタルカウンターという極めて現代的な素材を用いて、0=無を表現せずに他の数字のみを表現するということを通して仏教的無常観をベースにしたコンセプトを表現する如何にも宮島らしい空間として、徹底的に作り込まれていると言って過言ではない…そんな見事なインスタレーションです。

<南寺−ジェームズ・タレル…幽かな光が生み出す神秘的光景>
 明るい日差しの照付ける本村の集落の中に、焼杉板と組子構造という瀬戸内の伝統的な建築技法を用いながらもどこかシャープな近代性を感じさせるシックな建物が忽然と姿をあらわす。
 安藤忠雄がジェームズ・タレルのインスタレーションを覆う為に古寺の本堂跡に建てたこの建物は、建物の脇にある迷路のような狭い通路を通って、外の光と音を遮ってほとんど真暗と言って良いほどの薄暗くされた空間へと私達を導き、極めて微かな光の神秘的な美しさへと誘う。
 ゆっくりと壁を伝いながら、メーンの展示空間に入っても暫くは外の日差しに慣れきった目には何も見えず、まるでお化け屋敷にでも入ったかの様なキャーキャー等と悲鳴を上げる人が居る程に真暗に思えてならないが、中でゆっくりしていると徐々に仄かな光が見え出し、やがてそれが恰も映画館のスクリーンの様にはっきりと浮び上がる様に思える位に見えてくる。
 そんな微かで柔らかな光は、どんなに目が暗闇に慣れてかなり明確に見える様に思えても、微かさが必然的にもたらす静寂を感じさせ、見る者に神秘的な光のイメージを想起させずには置かない秘めやかな美しさに満ち、私達を魅了する。
 そんな極めて微かな光の美しさを見事に表現したジェームズ・タレルの代表的シリーズの一つであるこの作品は、一体どうやってこの独特の神秘的光を生み出すのだろうか?
恐らくその鍵は人間の知覚・視覚についてのタレルの科学的知識と、彼がパイロットとして見て来た明け方などの神秘的な光の体験だろう。
タレルは、宇宙飛行士が宇宙飛行後しばしば宗教に目覚める切っ掛けとなるのと類似した自身がパイロットとして体験した神秘的な光の体験を再現しようとして、人間の視覚・知覚の領域に興味を持ち、それをベースにして神秘的な美しさの光として見えるものとは何なのかを表現してきたのだ。
そしてそれを実現する技法として、タレルは微かな光を特殊な反射塗料を塗った空間に満たすことで柔らかさと仄かさを醸し出し、その光の空間と観客が見るスペースの間に刃物の様に鋭いエッジを持つ壁(又は天井)で切り取ることで周囲の闇との境界を明確に意識させる等、人間の視覚・知覚の持つ特徴をフルに引き出す為の科学的な技法を駆使することで、逆に大自然の中で感じる神秘的な光の表現を生み出したのである。
そう、タレルは科学的技法に振り回されたのではなく、それを自分が再度経験したい神秘的な感覚の再現の為に用いているのだ。
それがこの作品を単なる科学館の展示に終わらせず、美術足らしめ、私達を魅了する空間を生み出させている所以だろう。
(常設展示)

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「ビニプラ・インフォ・カフェ−藤浩志」(モマ・コンテンポラリー・福岡・天神)
〒810‐0041 福岡県福岡市中央区大名1‐1‐3 2F TEL 092‐715‐0355
西鉄大牟田本線福岡駅南口より徒歩3分、または、地下鉄空港線天神駅より8分、又は,西鉄バス今泉1丁目下車徒歩1分。
地下鉄天神駅より渡辺通を南へ進み、大丸と三越のある大きな交差点右折して国体道路を西鉄のガード下を通って暫く進み、西通の交差点を過ぎて少し行った右手の阪急共栄物産の入っているビルの2階(駐車場に入って脇のドアから階段を上る)。

<ビニプラが抉り出すリサイクル運動の問題点…洒落っ気あるリサイクルの重要性>
古ぼけたビルの駐車場から入り、如何にも裏口っぽい階段を上って古い鉄のドアを開けると、それまでの古臭い中小企業の事務所風の雰囲気から一転し、突如として眩いばかりに輝くビニプラの宝石の様に輝くPETボトルで出来たサインボードが目に入って来て、急に明るく華やかな雰囲気に包まれる。
勿論入口に限らず中も同様に、透明感溢れるPETボトルで出来たカウンターを取囲む様にPETボトルのストール(脚の長い椅子)が並べられ、光り輝く宝石の様な洒落たバー風のインテリアに仕立てられており、とてもゴミで出来たものとは思えない程のビジュアル的な完成度の高さに、驚かずにはいられない。
何しろ、PETボトルというと飲んだり持ち運んだりするのには便利だが、それを直接再利用するというと…水ロケットか、猫避けに建物の周りに置かれるか、お茶などを家で詰めて持って行くのに用いるか…といったどちらかというと安っぽくて厄介なイメージしかないのだから…
しかし、藤はPETボトルの丈夫で軽くて透明感ある素材の特質を徹底的に利用することで、軽くて簡単に作れて洒落たインテリアに再生する技法を生み出すことで、処理のし難いゴミというイメージを一掃し、便利で有用な素材へと価値を180°転換してしまうのである。
つまり、藤はゴミ問題の本質はものが不用になることによって生じるのだ…というゴミ問題の本質を抉り出し、それが不用にならない仕組みを提唱しているのだ。
勿論こうした“地球にやさしい”型の提案を作品として発表して来た作家や、ゴミを素材として面白がって来た作家達は今まででもいないことはないが、しばしばキッチュであったり、安っぽかったりして、それを用いることが格好良いとは言い難いものばかりであったのに対して、藤浩志はお洒落さと作り易さ使い安さを追究することで、その利用者が環境の為にやむを得ず使うのではなく喜んで用いる仕組みを提案し、環境への優しさを気取る為だけに用いられる廃品利用とは一線を画した本当に社会で成り立って行くシステム造り(=藤の弁を借りれば適性技術)を目指しているのである。
その為には、人間の消費の大方は洒落っ気や便利さの為のものなのだ…という消費社会の本質を衝かねばならない筈…という認識に立てば、藤はビニプラの展開にあたっては常に簡単なだけではなく、洒落たイメージ造りに拘るのだし、それに普通の人を撒きこんで行く為にポリクラフト(ポリ袋等を用いた新たな工芸!?)を提唱したり、ファッションビルの中にお洒落なモデルショップをオープンさせたり、今回の様に洒落たカフェを作ったりするのはごく当然のことだろう。
そう藤浩志のビニプラのプロジェクトは、多くのリサイクル問題の専門家達が消費社会の本質を忘れ切っていることを鋭く抉り出しているのだ。
(11月26日(日)まで)
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「キム・キョンジャ‐明け方にコロイドがついた嘘」(名古屋芸術大学ギャラリーBE・愛知・西春)
〒481‐8535 愛知県西春日井郡西春町 名古屋芸術大学美術学部内 
TEL 0568‐24‐0325
名古屋芸術大学ホームページ
名鉄犬山線徳重駅より徒歩15分。
徳重駅西口より西(左手)の方向へひたすら進み、エッソのGSのある信号を過ぎて少し行った左手に校舎(名古屋芸大)の角を左折し、少し入った右手の門からキャンパスに入り、真中の建物の1階。

<日常に潜むイリュージョンのデフォルメ…騙される楽しさとしての美術>
ゆらゆらと揺れる波の上に広がる少々緑がかった曇った空に、ぽっかり浮かぶ透明な月…を思わせるものが波に合わせるかの様にゆっくりと揺れ動く…そんな映像が壁に大きく映写されたビデオインスタレーションや、海の向う側に朧げに見える山並みの上に広がる空に、泣きべそ顔の太陽を思わせる落書きが書かれた写真!?作品、青空を背景に黒い紐の様なものを指で操って落書きの様な線描を次々とテンポ良く書き換え続けるビデオインスタレーションという何れも一見すると自然の風景に悪戯書きをしたと思わせる作品ばかりである。
が、良く見ると…そうではなく、実はお風呂場の光景であることに気付く…そう海に見えるのは風呂に張られた湯であり、空に見えるのは青いプラスチックの風呂桶の濡れた縁の部分であり、線描の様に見えるものは洗髪の際に抜け落ちた髪の毛であることに。
そう空と思えるところに何故か滴になって今にも落ちて行きそうな水滴が残されていたり、キッチュな子供の落書きの様な笑顔のお日様を描いてみたりすることで、見る人にそれが風景写真・ビデオではないことをわざと気付かせる仕掛けを残すことで、それを単なる擬似風景に終らせず、キム・キョンジャは日常身の回りに在るミクロの世界の楽しい不思議の国へと私達を誘う装置へと鮮やかに転換しているのだ。
それだからこそ私達見る方も、その不思議なビジュアルに思わずにやりとさせられてしまう…
そんなキム・キョンジャの“お風呂場”シリーズの一連の作品は、ある意味では極めて平面的なイリュージョンに則った極めてオーソドックスな絵画的な作品である。
しかし、同時に風呂に出来た露を素材として用いることである意味では極めてパフォーマンス的な瞬間性も持ったり、記録の画像のみを発表することに拘ったりする等様々なずらしのテクニックがふんだんに仕掛けられ、単なるキッチュやお笑いに留まらない美術特有の面白さを引出しているのが魅力だろう。
そう日常生活に潜む幻影のデフォルメ…というともすれば単なる芸能娯楽になりかねない微妙な境界線上に在るビジュアルの魅力…
そんな楽しさ・危うさの微妙なバランスを飄々と玩んだ楽しい作品です。
(10月20日(金)まで)

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「桑原盛行‐図楽」(マカギャラリー・東京・下北沢)
〒155‐0031 東京都世田谷区北沢4‐10‐4 TEL 03-3469‐1320
小田急本線&京王井の頭線下北沢駅北口より徒歩8分。
下北沢駅北口よりピーコックのある道を右手に進み、突き当りを右折して直ぐの角を左折し、少し行った“すしこう”のある角を右折してクリーニング点の角を左折し、突き当たりをまた右折して直ぐの角を左折し、道なりに進んだ突き当たりの少し右手の建物。

<ゆらぎの魅力…CGを圧倒するシステマチックなペインティングの力の源泉>
まるでブラックホールを解析した網状のCG画像の様に中心部分に向ってどんどん落ち込んで行く様なペインティングがあったり、逆に中心部が少し凹んだタブレット状のものが同じく網状のCG画像を思わせる線描で描かれていたり…そんな印象を受ける巨大なキャンバスが半円形のコンクリート打ち放しの壁面に規則正しい間隔で掛けられている。
それらの絵画は何れも良く見ると、数種類の色で描かれた或る法則性に基く無数の円環状線描が大きな画面全体を覆うことで、全体としても円形の微妙な濃淡の感じられる味わい深いペインティングに仕上っていることに気付かされる。
そう、CG顔負けの規則正しい作業を当初の計画通りに執拗に続けた成果としてこのビジュアルは生れているにも関らず、桑原盛行のペインティングは、CGに見られる様な単調な深みに欠けるビジュアル…という陥穽に陥ることなく、むしろペインティングらしい味わいを作り出すことに成功しているのだ。
その理由はどこにあるのだろう?
その答は恐らく…無数の下書きの線を引くことでまず円の中心点を描き、それを基準にしてコンパスで円形の線描を丁寧に仕上げるという一連の作業が、結局人の手で行われてそこに微妙な手ブレが加わったり、絵具を用いることでその微妙な滲み・広がりが出たり、交点に中心点を置いてコンパスを用いるといってもそれが微妙にずれたり、数種類の色の線描を重ね合せることで単色の素っ気無さを避けたりすることで生み出された一種の“ゆらぎ”にあるに違いない。
つまり、桑原のペインティングの魅力は、徹底的な幾何学的なバランスの追究が生み出す一種の黄金分割的な美学と、自然的ゆらぎの生み出す複雑性の味わいが絶妙に混ざり合った点にあるのである。
そう、楽譜を元に機械が電子音を奏でるよりも、有能な音楽家達が微妙な間や弾き方の強弱など絶妙な演奏をする方が魅力的なのと同様に、規則的な絵画であってもそこに微妙な描き方の違いから来る魅力があるのだ…だからこそ、絵画は今尚生産性で遥かに絵画を凌ぐCGに全面的に取って代わられることなく、その味わいが楽しまれているのに違いない。
そう考えれば、桑原盛行が幾何学的な美の追究の一方で自らの手で描くことに拘り続けた意味合いは、実に重いだろう。
(10月15日(日)まで)

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「カーリン・ザンター」(ギャラリー小柳・東京・銀座)
〒104-0061 東京都中央区銀座1-7-5小柳ビル1F TEL 03-3561-1896
地下鉄銀座線&日比谷線銀座駅下車徒歩5分、又は、JR山手線有楽町駅下車徒歩5分、又は、銀座線京橋駅下車徒歩2分。
銀座通の最も京橋寄りの西側に面したビルの1階。

<機械で測定・復元出来る時代の彫刻とは…>
3次元測定装置と3次元モデリングマシンを用いて作られた何十体かの小さな人体彫刻!?が、アクリルケースの載った四角い白い台座の上に恭しく置かれている。
近年の測定技術と成型技術の進歩を反映して極めて精巧に作られたその形は、機構上の制約から来る板状の積層状の凸凹こそあるものの驚くべきレベルのリアリティを持ち、最早機械が極めて技巧的な彫刻家の作り出すリアリティをある意味では遥かに凌駕してしまった…という現実を突付けてしまっているのである。
つまり、最早彫刻さえも現実に存在しているものを具体的に写生的に構築することが意味を為さない(=かつて写真の誕生で生じた絵画の危機と同様である)時代へと突入した現代に於ける彫刻の存在意義への一つの問いを投掛けること…これがこの作品の持つ意味合いなのである。
言換えれば、最早彫刻家が彫刻を作る為にはその形を作る意味合い=何らかのコンセプト、現存しない新たな形の創造、または機械には捉えられない特徴のデフォルメの何れかを持たねばならないのだ…ということを示しているのだ。
芸術と工芸を結ぶ最後の掛け橋の崩壊を指し示すことで、カーリン・ザンターは美術が新しい時代へと完全に突入したことを示している…そう感じられた。
(9月30日(土)まで)

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「清水瑠璃子」(SCAI THE BATHHOUSE・東京・谷中)
〒110-0001 東京都台東区谷中6-1-23柏湯跡 TEL 03−3821−3553
E-MAIL scai@ra2.so-net.ne.jp
JR山手線&京浜東北線&常磐線&京成本線日暮里駅南口より徒歩8分。
日暮里駅南口より左に袴線橋を渡って渡り終えた所を左折し、そのまま道なりに谷中の墓地を桜並木を通り抜け、2ツ目の信号を渡った右側の角の元の銭湯。

<蜃気楼の様な儚さとアウトサイダーアート的荒々しさのの両立>
殆ど子供の落書きを思わせる様なアウトサイダーアート的な具象や抽象の絵が半透明の紙に極めて薄く延ばされた絵の具で描かれていたりする一方で、その間の壁に上の方から糸に連ねられたスパンコールが垂らされてきらきらと儚い光を放っていたり、数種類の色の粉が混ざり合う様に床に微かに振り掛けられていたり…何れも仄かという言葉がぴったり来る様なものばかりが設置されていたり、どこか不思議な違和感を感じさせかねない様々な要素が恰も当たり前のものの様にギャラリー内に同居している。
そんなある面では“ひそやかなラジカリズム”の申し子の様な側面を持つ一方で、内藤礼の様なひそやかな中にも凛とした緊張感ある美意識を明確に持った作品とは異なり、蜃気楼の様にひたすら拡散的でひたすら仄かにきらめいているエレガントさを思わせる部分とアウトサイダーアート的な荒っぽさが不思議と同居している様に思えるのが、清水瑠璃子の作品を他のひそやかな作品との最大の違いだろう。
何しろ、細長い糸で上の方から垂らされたスパンコールの列は、見る角度に拠ってその一部が微かにきらめいて見えるだけだし、床に撒かれた顔料の粉も床が見える位仄かに撒かれているだけだし、半透明な紙に描かれることで、描かれたものも透けて見える後ろの壁と混ざり合い、スパンコール同様に微かに宙に浮かぶかの様に存在してると言って良いほど素材的には仄かで儚さを感じさせるにも関らず、描き方や設置の仕方の方はシンメトリー(左右対称)などを全くと言って良い位無視しており決してきちんと整えられているとは言い難い人間臭さ溢れるものなのだから…
それだけに、会場を埋め尽くすかの様に多数展示するのではなく、もう少し作品点数を減らして仄かさ・微かさと人間臭い荒々しさの同居という清水らしさを強調!?した方がよりその魅力が増すのではないだろうか?…という感じは否めない。
やはり、東京都内では最大級の大きな空間を持つ本格的なギャラリーでの初個展だけに、些か力が入り過ぎたのだろうか。
作品自体はどんどん力が抜け、そうした特長が明確になって来ているだけに、インスタレーション的な部分も含めた全体的な展示の仕方も今後よりすっきりとさせて、仄かさ・儚さというトーンを前面に押し出した方が、より人間臭いタッチとの落差がより明快になったに違いない。
その辺りが次回への課題だろう。
(9月30日(土)まで)

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「東恩名裕一」(ギャラリーNWハウス・東京・早稲田)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田1-3-7NWハウス1F TEL 03-3204-0246
地下鉄東西線早稲田駅より早稲田通りを西(高田馬場方向)へ徒歩4分。
早稲田駅3b出口を出て右(早稲田通りを高田馬場方向)へそのまま進んだ右手のコンクリート打ち放しのビルの1階と5階。

<雛型に嵌まる人達は幸せなのか?…典型を想起させることの持つ力>
多くの女性達が憧れる様な典型的な小さく平凡ながらも幸せそうな家庭の夢…というものを想起させるイメージ戦略で売る家具店のチラシが置かれた小さな散らかった部屋。
下が部屋として使える様に作られた背の高い(というより脚の長い)ベッドを用いて、そんな夢見る女の子の現実の狭い部屋を想起させるインスタレーションは、これまで東恩名裕一が展開して来た“雛型”シリーズの一環と云って良いだろう。
何しろ、そこに描かれているのは、今の女の子の現実のワンルームライフの狭くゴチャゴチャした雰囲気と、そこで暮しながら見る典型的な夢の家庭のインテリアを宣伝するチラシというまさに“典型”そのものなのであり、しかもそれを見せ付けることでそうした企業や社会が作り上げた雛型に見事に嵌まってしまう人々を想起させ、その問題を浮き彫りにして行くのだから…
果して雛型に嵌められてしまった人達の夢!?は、実現したとして本当に幸せなのだろうか…本当の意味で自身から生れた訳ではない夢に振回される人達への疑問を投げ掛けている様に思うのは私だろうか?
(10月2日(月)まで)

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「三品幸彦」(ギャラリー21・東京・銀座)
〒104−0061 東京都中央区銀座3−4−17チェリービル2F TEL 03−3567−2816
地下鉄銀座線&日比谷線&丸の内線銀座駅より徒歩3分。
銀座4丁目交差点より晴海通を数寄屋橋寄りに行き2つ目の角(近鉄ビルの角)を右折して2ブロック目の右手のビルの2階。

<輝かしい未来から未来の廃墟へ>
パイプをギャラリー内に恰も配管かの様に配置したどこかSFチックな作品…というのが、私から見た従来の三品幸彦の作品のイメージだが、今回の作品は明るい未来を思わせるカラッとしたクリーンなイメージから大きく転換し、まるで未来都市の廃墟を思わせるものになった。
何しろ、床に敷かれた少し曇りがかった半透明のアクリルの向う側に見える様にされることで、パイプの群れは、最早輝かしい未来のイメージを失うどころか、反対にそうしたノスタルジックなイメージすら漂わせてしまうのだから…
そんな、科学のなれの果てのイメージは、確かに核燃料施設での臨界事故・コンコルドの墜落・環境問題などに代表される科学技術の行詰りを感じさせる事件に事欠かない現代に生きる私達の気持ちにしっくり来てしまう…些か寂しいが。
そういう意味で、まさに時代の申し子…そんなビジュアルをパイプと半透明のアクリルというシンプルな素材で表現したこのインスタレーションは、三品のこれまでの作品の中で最も完成度の高いものに仕上っていた。

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「田邉晴子‐眠れる館」(イムラアートギャラリー・京都・丸太町通川端)
〒606-8395 京都市左京区丸太町通川端東入ル東丸太町31 TEL 075‐761‐7372
京阪電鉄本線丸太町駅より丸太町通を東(鴨川と反対側)へ進んだ左手。
イムラアートギャラリーホームページ

<明るい世界で無防備に眠る…現代日本の安心感>
如何にも今風の明るく清潔なガラス張りの館…その室内は隅々まで光りに満ち、影一つ無い。
そういう明るくクリーンで安全な空間こそ安心して眠れる場所と云わんばかりに、如何にも無防備な裸体で安らかに眠る人々を写した写真が透明なフィルムにプリントされて、透明な枕になっていたり、ソファーになっていたり、床に敷かれていたり、テーブルに貼り付けられていたり、はたまた服の様に壁に掛けられていたり…更には、木で出来たパズルか積み木の様なものにも、壁に立掛ける様に置かれた木の板にも安らかに眠る人々がはっきりとだがどこか消え入りそうにプリントされていたりもする。
そんな田邉晴子のインスタレーション“眠れる館”を見ていると、その明るくて清潔な家を思わせる雰囲気に何となく安らぎを覚えると同時に、そこに彼処にある眠れる人々の姿の儚さすら感じさせる程の生々しい迫力の欠如に攻撃されない安心感を感じたり…
まさに現代日本人が理想として追い求めて来た明るくクリーンで、かつ他者との要らぬ摩擦の無い社会を彷彿とさせる見事な空間構成は筆舌を尽し難い。
だが、この田邉晴子の“眠れる館”は、こうしたひたすら明るくクリーンで、ドロドロした人間臭さの無い社会を一方的に賛美する為に作られたと見るのは間違いだろう。
何故なら、田邉の作品と特徴である生身の人間そのものと云えるヌードを被写体として用いながらも、そこに生々しい人間臭さを全く感じさせない作風は、彼女が歩道橋の上から眺めた歩行者天国の人々がペラペラの薄っぺらい存在に見えた=余りにも膨大な数に膨れ上がった人の波の中での一人一人の存在が、恰も陽炎の様に薄っぺらで消え入りそうなまでに透明に感じられたに違いない…この視点こそが、彼女の作品の中での人々の扱い方のベースであり、透明なシート等を用いてペラペラとした儚さは、彼女の現代人への批評性を物語っているのだから…。
もっともそうは云っても、彼女は決してそうした人々を見下したり唾棄すべきものと捉えている訳でも無いらしい。
何しろ、彼女の作中に於ける人々は、同じ様に生身の人間を用いながら生々しさを感じさせない作風で知られるダムタイプとの大きく異なり、消え入りそうではあれ、そこに人としての優しさを含む生の微かに人間性が残されているという特徴を明確に持っているからである。
取分けそうした点が明快に感じられるのが、今回新たに加えられたすやすや眠る赤ん坊の写真がテーブルの上などに置かれている辺りだろう。
そこが母親の愛情に包まれた安心感のある空間である限り、家中何処でもすやすやとねむってしまうし、明るくても眠ってしまう赤ん坊の寝姿を配置したことで、遍く届く光が恰も安全さを保証する慈愛の様に降り注いで見えるのだから…
そう考えると、明るい電車の中ですやすやと眠ってしまう様な現代日本の安心感は…実は赤ん坊が漠然感じている安心感と類似しているとも云えるのかもしれない…そんなことを思わず考えてしまうが、一方ではそうした形で存在出来ることの幸せさと、人の個性や存在感の希薄さの持つ危うさに繋がりかねない危険性を同時に感じさせる。
そんな現代日本社会の性格そのものの持つ魅力と危うさの両面を、見事に表現し尽くした田邉晴子の“眠れる館”は、母親としての愛情を身に付けたことでその表現に一層の深みを付け加えることに成功していた。
(10月7日(土)まで)

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「Mio写真奨励賞99年度入賞作家新作展」(ミオホール・大阪・天王寺)
〒543−0055 大阪市天王寺区悲田院町10−39天王寺駅ビルミオ10F
TEL 06−6770−1376
JR大阪環状線&関西線&阪和線天王寺駅直結、または、近鉄南大阪線阿倍野橋駅&地下鉄御堂筋線&谷町線天王寺駅より徒歩1分。
ミオ写真奨励賞ホームページ

<夢の果てまでも‐近代の兵どもの夢の跡…>
ひな壇造成されたまだ家が建つ前の空き地の脇の原っぱに一面に広がるセイタカアワダチソウの黄色い花。
そんな空き地に生い茂る見向きもされない雑草のこの黄色い花をいとおしむ様に写し、恰も爽やかな高原に咲く鮮やかな花園の様に見せてくれる“夢の果てまでも”は、雑草として見向きもされずに寂しげに咲くセイタカアワダチソウの黄色い花を好んだ父への田邉晴子のオマージュである。
アメリカから侵入し郊外の空き地に我が物顔に生い茂るこの雑草に、ある意味ではアメリカ流の郊外生活=庭付き一戸建住宅に住み、車で買物等に行く豊かな生活を夢見た戦後日本の企業戦士たちの夢が重なり合う。
自然を破壊しようとか地域の個性の無い貧しい街並みを作ろうとか思ったのではないが、結果として自然を破壊し、没個性的で深みの無い街並みを作ってしまった…そんな哀愁すら感じさせる様に、セイタカアワアチソウは日本の郊外の空き地を埋め尽くす様に繁茂する。
果して、これが私達が戦後ひたすら仕事に没頭して追い求めて来た夢だったのだろうか…高度成長が終り、放棄された空き地に咲く黄色い花はまさにそうした近代の夢を追い求めて戦った企業戦士たちの夢の跡に咲くのだ。
単なる平社員と同じく、決して華やかでもないし、見向きもされないが…
そんなところに、田邉晴子はそこに父親の世代の頑張りと限界を見出すのみならず、それが現代日本の直面する奇妙な状況に繋がることを直感的に気付き、作品化したと云えるだろう。
(9月17日(日)まで)

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「オプチカルフラット‐高谷史郎」(児玉画廊・大阪・本町)
〒541-0051 大阪市中央区備後町4−2−10
TEL 06-4707-8873
地下鉄御堂筋線&中央線&四つ橋線本町駅2番出口より徒歩2分、又は、京阪電鉄本線&地下鉄御堂筋線淀屋橋駅より徒歩10分。
本町駅2番出口より北(梅田寄り)へ行った最初の角を左折して暫く行ったJOMOのスタンドの角を右折して少し行った右手の建物の2階。

<“クール”という感覚の批評性…高谷史郎達が提起するもの>
ギャラリーの二つの部屋を仕切る壁を突き抜ける様に、如何にもメカニックなイメージを思わせるステンレスのパイプが両方の部屋の中央に一直線に伸び、それぞれの側の真中付近にこれまたステンレスのフレームに仕込まれたフラットなディスプレーが乗っかっていて、更にそのディスプレーの中央にファイバースコープが載せられている。
そんな人間臭い日常性は徹底的に排除されたSFチックさすら感じるクールなインスタレーションのモニターに流される映像は、それが車窓に流れる普通の景色を捉えた様な映像も、数列が延々と流れる映像も等しく日常的リアリティに欠け、何処か人間のいない異次元の世界に潜り込んでしまった様な奇妙な感覚に襲われてしまう。
こうした日常極普通に目にするビジュアルを用いながら、不思議と日常感と呼ばれる様な意味のリアリティが徹底的に抜け落ちたリアリティ無き世界は、高谷史郎が中心的なメンバーとして活動しているダム・タイプの作風にも共通する特色である。
何しろ“S/N”(これ自体は古橋悌二が中心だった頃の作品であるが…)に代表されるダム・タイプの舞台も、生身の人間が裸で走り回ったり、声を発したり、はたまた車の車窓からの景色を使っていたり…と普通でならば人間の生身のリアルさを引き出す為に用いられるであろう素材を扱いながら、そうした生っぽさを見事なまでに消し去っているのだから…
言換えれば、ダム・タイプの一連の舞台に於いて、異常なまでに冷たく影の無い照明や、激しく点滅するフラッシュで生身の肉体特有のエグい迫力を消し、更にステンレスパイプやガラスなどの無機質な素材のみで作られたセットで、舞台廻りに残る日常臭さを消してしまっているのと同様に、今回の高谷のインスタレーションもステンレス素材・フラットなディスプレー・ファイバースコープ等徹底的に無機質な素材に加えて、映像自体を何となく薄く弱々しい雰囲気にすることでごくありふれた光景から日常臭いリアリティを見事に消し去っているのである。
それどころか、日常の光景を上から見下ろす視点を持たせることで、恰も天空から日常の猥雑さを超越した神の視点の様なクールさをイメージさせ、近年物質的に満ち足りながらもそこに表れる剥き出しの欲望によって作られて行く猥雑な日常風景から離脱し、リアリティよりも理想を追い求める聖職者か青年かの様な高潔さすらも想起させるのである。
そう、近年欧米から流入した格好良い…という意味で使われる“クール”という言葉がぴったり来る様なイメージを想起させる様に。
だとしたらそこで表されているものは…
一見極私的で非社会的に見える“クール”さを徹底的に表現することで、そこに隠された近代的合理主義が生んだ数量的物質至上主義の表徴としての現代の日常の風景へのアンチテーゼとしての刃の鋭さを露わにすることに違いない。
まさに現代のクールという感覚の頂点に立つ高谷の面目躍如。
クールさも極限まで推し進めれば…単なる格好良さを超えた別の意味を表現出来る…そんなことを改めて感じさせられた。
(10月28日(土)まで)

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「福岡道雄新作展」(伊丹市立美術館・兵庫・伊丹)
兵庫県伊丹市
JR宝塚線(福知山線)伊丹駅より徒歩7分。
JR伊丹駅西口広場(旧城址)北側の道を真直ぐ進んで最初の信号(清酒白雪本社前)の信号を右折し、最初の信号を渡った左手。
伊丹市立美術館ホームページ

<“何もすることがない”のは罪悪なのか…近代思想の罠>
何もすることがない 何もすることがない 何もすることがない…

何をすれば良いのか判らない 何をすれば良いのか判らない 何をすれば良いのか判らない…

私達は本当に怯えなくて良いのでしょうか 私達は本当に怯えなくて良いのでしょうか 私達は本当に怯えなくて良いのでしょうか…

巨大なシステムと化した広大な世界の荒波の中で、自分の役割を探しあぐね困惑する現代人の気持ちをストレートに打出した言葉が、真黒な板に白い文字で延々と書き連ねられた福岡道雄の近作は、人々はすべからく人類の進歩に役割を果すべき…という近代の理念に囚われた現代人の意識を結果的に炙り出す様な哲学的な問い掛けをただただ繰り返す。
そんな“何もすることがない”や“何をすれば良いのか判らない”…近代主義的人生観に裏打ちされた過剰な役割意識に悩む辺りは、“相変わらませず”という言葉に代表される何もしなくて良い・何も変えなくても良い…ことを喜ぶ価値観が喪失しながら、皆が納得できる進歩の方向が見えなくなってしまった現代社会の病原そのもの…と云って過言ではない。
それ故に、延々と写経の様に書き連ねられた言葉を見つめていると、ただただそこに生きて楽しく過ごせれば良い…という考え方を享楽主義的と批判、偏差値や財産・収入の多寡など勉強や仕事(=金儲け)の出来る出来ないだけを絶対的な基準に人の価値を決めつけたり、逆に全ての人は何らかの才能がある筈等と云って、兎に角何かさせようとしてしまう奇妙奇天烈な平等感が蔓延していたり…これらの現代社会に蔓延する考え方は、どれもこれも物質的豊かさを実現した近代主義の基本概念である“何かしなければならない”という役割意識に囚われていて、その根源にある観念の罠から脱していない…ということまでも想起させられてしまう。
そんな見事な哲学的作品を見せてくれる福岡だが、ここまで現代の社会の基本思想に言及する作品を作り始めたのは、実は阪神大震災の後からである。
死をテーマにした作品を作っていながら阪神大震災で知人などの死を目前にしながら何も出来なかったことに衝撃を受け、それまでの棺桶型のオブジェで死を想起させる作品作りが出来なくなり、自ら直面した役割の喪失感をストレートに書き記すしかなくなったことから生まれたのだから…
まさに近代が自然に破れた震災から生じた近代精神の危機が=“何もすることがない”“何をすれば良いの判らない”ことが生み出した近作が、彼自身も直面したそんな近代的役割意識の抱える問題を強烈に浮き彫りにするのはそうした背景があるからなのである。
そう、福岡は俗に云うポストモダンの思想が到達し得なかった近代思想の超克に結果的に成功しているのだ。
そのことがこの作品の絶対的な凄味であるに違いない。
だとしたら…彼の作品がリアルに思えなくなる時、即ち、“何もすることがない”のが悩みだったのか…という新鮮な驚きを持ってこの作品が見られる様になった時こそ近代の終焉なのかも知れない。
(10月1日(日)まで)

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「松井紫朗‐フレッシュ・トーン」(白土舎・名古屋・伏見)
〒460‐0003名古屋市中区錦1−20−12伏見ビルB1F
TEL 052−212−4680
地下鉄東山線&鶴舞線伏見駅下車徒歩1分。
広小路伏見と錦通伏見の間、伏見駅9番出口出てすぐ左の横浜銀行のビルの地下1階。

<絵の中に入り込む様に…ヴァーチャル・アンリアリティ(仮想非現実感)を生む松井紫朗の世界>
シリコンゴムに顔料で鮮やかに着色したものが、壁からのっぺりと垂れていたり、床にペチャッと落ちていたり、はたまた立体的な形になっていたり…そんな、まるで鮮やかなカラーで塗られたポップなイラストを巨大化・立体化したかの様に思えるインスタレーションこそ、松井紫朗の持ち味だろうし、勿論、今回もそうした松井紫朗特有の魅力は満載である。
今回の展覧会名の元となった壁から床に垂れ落ちて零れたかの様に広がる肌色のシリコンゴムの作品“フレッシュ・トーン”(日本語に直訳すると“肉塊の調べ!?”)を中心に、それを取巻く様に壁にゆったりと間を置いて掛けられたシリコンゴムののっぺりとしていながらも角の丸みが得も云われぬ立体感を醸し出す絵画作品!?に至るまで、ギャラリー全体が恰もイラストの書かれた本の1ページの様なインスタレーションを構成し、見る者を松井ワールドへと誘う。
そんな誘いに乗って、ギャラリー内を歩き回ったり、座り込んで辺りを見回したりしていると、自分自身がまるでイラストの中に入り込んでしまった様な気持ちに襲われてしまう…それ程、松井の作品は立体感=現実感と、平面性=非現実性が不思議と入混じったイメージに満ち溢れているのだ。
恐らくその魅力の源泉は、のっぺりつるつるしたシリコンゴムの表層自体の非日常的(=非現実的)だが物質感(=現実性)のある特色に加えて、シリコンゴムの素材自体の持つ白さと純粋で均質な性質がベースとなることで生み出される均質で鮮やかな色合いという非日常性(=非現実性)、そして十分な厚みを持たせることで生まれる丸みを帯びた立体感(=現実性)…という3つの要素が互いに絡み合うことで生み出されているのだろう。
そう、そんなヴァーチャル・アンリアリティ(仮想非現実感)の世界こそが、松井紫朗ワールドなのである。
(10月14日(土)まで)
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「川俣正−ワーク・イン・プログレス・イン・豊田」(豊田市美術館・愛知・豊田)
豊田市小阪本町8−5−1 TEL 0565−34−5171
名鉄豊田線(地下鉄鶴舞線直通伏見より45分)・三河線豊田市駅、又は、愛知環状鉄道新豊田駅より南へ徒歩12分。
愛知環状鉄道沿いの小高い丘を一番上に上ったところ。

<賑わいを前提にする川俣正の失敗が浮き彫りにした‐そぞろ歩く街の消滅が意味するもの>
頭のおかしい人間が組立てたイナバの物置を思わせる組立て方をわざとずらして屋根の一部が抜けている鉄製の物置を青山通や神戸の町中に設置したり、ヨーロッパの古い石造りの整った街並みの中に忽然と出現するざっくりとした材木の塊…といった風情の奇妙な構築物を町中などに作り出すインスタレーション作品を主に発表して来た川俣正が近年世界各地で取組んでいる継続的なプロジェクトタイプの作品“ワーク・イン・プログレス”。
その豊田ヴァージョンとして豊田市美術館との間で始まったこの作品の最初の作業が今年行われ、そのプロジェクトの様子が見られるのがこの展覧会である。
美術館の展示室の中に展示された作業風景を写した写真を見ていると参加している人々は皆実に楽しそうである…川俣正のプロジェクトに於ける人心掌握の見事さが垣間見れる。
だが、美術館の駐車場の脇の林に今年の作業で作られたものを見ると愕然とする。
何処にでもありそうな典型的な郊外を思わせる豊田市美術館のアスファルトで覆われた露天駐車場の脇の林で残された部分と、駐車場にされた部分の間のスペースに材木を使って作られた木のデッキの上に細長い木のテーブルとベンチ、そしてそのデッキの脇から林の中に伸びる遊歩道。
日曜大工に毛が生えた程度のレベルで作られた中途半端に実用的なレベルのそれらの構築物は、土曜日の昼下りにも関らず誰一人使う者もいなければ、通りすがりに見て行く者すらおらず、ただただ真夏の炎天下に人気無い郊外の寂しさと共に無残な姿を晒しているに過ぎないのだから…
その様な人々の関心すら呼ばない無用の長物と化した作品!?は、需要無き無駄な土木事業や、モータリゼーションと共に人気の無くなった郊外の侘しさを想起させこそすれ、そこに何らかの文化的な触発や物語的なイメージなどは呼び起こせそうには思えない。
強いて云えば、そこに表された郊外の寂しさが、逆説的に人がそぞろ歩く都会の魅力を逆説的に浮び上がらせている…と捉えることが出来るくらいだろう。
結局川俣正の作品は、ただひたすら合理的に目的地へと個人的に直行するモータリゼーションの文化ではなく、人がある意味では無駄とも云える冷やかしながら町をぶらぶらする様な処でないと意味を為さないのだ。
何しろ、川俣の作品はあくまで実用的ではないが一寸した非日常的な経験を何気に通り掛った人々が楽しんで行くところにあるのだから…
そう考えれば、川俣が典型的なモータリゼーションの町豊田で作品造りを行うこと自体が本質的に無理があると云えるし、その上美術館の駐車場等という美術館に来る人以外基本的に利用しない場所、しかも駐車場から美術館への通り道ですらない場所を設置場所に選んだこと自体がどう考えても自殺行為である。
会社でも家でもない別の場所が欲しい…という地元側の声が典型的に示すモータリゼーション型地方都市の持つ根本的な問題は、都会の特質に依拠した作品を作って来たにも関らずそれを自覚していない川俣正には、解決は無理なのだろうか?…そんな虚しさだけが心の中にぽっかりと残った。
(9月24日(日)まで)
(作業期間:7月24日(日)〜8月7日(月)まで)

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「ジョルジュ・アデアグボ」(豊田市美術館・愛知・豊田)
豊田市小阪本町8−5−1 TEL 0565−34−5171
名鉄豊田線(地下鉄鶴舞線直通伏見より45分)・三河線豊田市駅、又は、愛知環状鉄道新豊田駅より南へ徒歩12分。
愛知環状鉄道沿いの小高い丘を一番上に上ったところ。

<癖のある空間で作られたインスタレーションは移設・展示出来るのか?>
素朴さやエスニックさを感じさせる如何にもアフリカ的な木彫の人形等のアフリカを思わせる雑多なものが、トヨタ自動車の創業者達や過去のトヨタの車のカタログ等と一緒に渾然一体となって美術館の四角いホワイトキューブの空間を覆っているが…これをインスタレーションとして評価するのは難しい。
単にアデアグボの自国のものとトヨタのものを混ぜ合わせて置いただけにしか見えないのだ。
実は、アデアグボはアフリカの自宅の庭に長年に渡って営々と築き上げた空間が見事なインスタレーション…と評価されているらしいが、そう見えるのはきっと彼が住んでいるアフリカの家の空間と相俟ってはじめてインスタレーションと云えるレベルになっているに過ぎないのだろう。
だから、それを切り取ってホワイトキューブの美術館の空間に持って来ても単なる博物館的なものか、ガラクタ箱の様にしか見えないのだろう。
やはり、インスタレーションはその空間との相性を無視して展開できない…ということを改めて思い知らされる。
やはり、野に置けアデアグボ…
(9月24日(日)まで)

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「ブッリ」(豊田市美術館・愛知・豊田)
豊田市小阪本町8−5−1 TEL 0565−34−5171
名鉄豊田線(地下鉄鶴舞線直通伏見より45分)・三河線豊田市駅、又は、愛知環状鉄道新豊田駅より南へ徒歩12分。
愛知環状鉄道沿いの小高い丘を一番上に上ったところ。

<核となるものを探求することの重要性‐ブッリが逆説的に教えてくれること>
戦争中の収容所での生活を経て独学で医者から画家に転向したアルベルト・ブッリ。
麻袋や火で溶かしたビニール等を絵画の素材として採り入れ、絵画の新たな方向を生み出した美術史的に重要な作家であるらしい。
こう書くと焼け爛れたビニールの痛々しさすら感じさせる激しさや、麻袋の荒々しさを想起させられるが、実際の作品はかなり大人しく極普通に掛けられる様なあっさりとした印象を受ける。
そう、折角の素材の持つ荒々しい荒削りな迫力を用いるどころか、逆にそれを殺してしまって甚だ迫力に欠ける画面を構成してしまっているのだ。
ならばそこに静寂さすら感じる程の美しさがあるのか…というと、それも疑問である。
そこまでの圧倒的な美の魅力も持っていないのである。
つまり、ブッリは新たなメディウムの活用という段階で留まりその手法の持つ魅力を十分に引出すまでに至っていないのである。
何故なのだろう…その理由はその作風の変遷の激しさを見れば納得行く。
そう余りにも次々と新たな素材や技法を採り入れ過ぎていることが問題なのである。
過剰なまでの新物好きの姿勢が墓穴を掘り、結局作品としての完成度を高めることが出来なかったことが、ブッリを発明家的位置付け=美術史的には価値があるが作品自体の力で見るものを感動させるには至らない状態に押し留めてしまったに違いない。
そうした辺りが実に勿体無く感じられるのだが、こうした特徴は東京を中心とする現代の日本のアートシーン全般にも云える点だけに…新たな展開に走り過ぎる美術家達を後で回顧した場合が些か心配になる。
そう、核になる技法なりテーマなりが見付かったらそれを徹底的に探求して行くことの重要性をブッリは逆説的に教えてくれるのである。
それがこの展覧会を今日本で開いた意味合いになるのだろうか…
(8月20日(日)まで)

100/9/1 (金)

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「ビニールプラスチックコネクション岐阜会議‐ビニプラ?‐藤浩志」(日本昭和音楽村・岐阜・上石津)
〒503−1632 岐阜県養老郡上石津町下山2011
TEL 0584−45−3344
日本昭和音楽村ホームページ

藤浩志が“ビニプラ”と名付けたビニール・プラスチック類はリサイクルで一番厄介なもの…というのが通り相場である。
何故なら、自然素材の様に腐って自然に戻ったりするのでもなければ、かといって紙や木等の様に再生原料として使い易い訳でもなく、下手すれば安っぽいイメージもある上しばしば燃やすと有害ガスが出てしまう…という厄介な代物なのだから…
逆に云えば、この厄介な“ビニプラ”を上手く再利用できればリサイクルにとっては実に有効に違いないのだが、その素材の特質を活かすと云っても…元々余りにも特定の機能に向く様に人工的にコントロールされ過ぎた素材だけに、それが再利用に於いてはネックに成ってしまう。
何しろ、それぞれの用途に合わせて様々な素材がカラフルに着色された為に全体としての材質と色彩の統一が無さが、素材感・色彩の特色を活かすには極めて細かく分類せざる得ない状況を作りだすのだから。
しかし、藤浩志はそうした欠点すらもこのプロジェクトでは面白がり、“ビニプラ”素材特有の特徴として最大限に活用しようとしている様に思える。
例えば、アルミ蒸着PETと呼ばれるアルミとプラスチックの極めて薄い複合素材という極めて厄介な裏側が銀色になった菓子袋も藤達に掛れば美しい銀色に輝く美しい“裏銀”という素材へと変るし、スーパーのロゴマーク入りの袋もそのマークが面白ければまるでグッチやルイヴィトン等のブランドロゴの様に用いることが出来る模様入りの生地として服等へと姿を変えるし、ありとあらゆる袋類は糸の代りにカラフルな布を織る素材へと生れ変るし、PETボトルはその軽さと丈夫さを活かして椅子やカヌーへと生まれ変わったりその透明感を生かして光り輝く看板やライト系のオブジェへと変身したり…とその素材感を活かすことに余念が無いのだ。
そんな“ビニプラ”素材の用い方としての“ポリクラフト”は、まるで米麦等の穀類の栽培の結果として出て来る藁から藁細工と云われる世界が展開したのと同じ様に、生活の中から自然に派生して来るものをゴミとして見るのではなく素材として捉えて最大限活用する感覚を彷彿とさせ、かつての私達日本では稲だろうが鯨だろうが、はたまた糞尿に至るまで兎に角手に入れたものは余すことなく活用するのが、ごく自然なことだったのだ…ということを思い起させるの程である。
それ位、藤浩志達が生み出した“ビニール・プラスチック・コネクション”の製品ショールーム展示は、見事にその素材感を活かし美しさやそれなりの実用性を持つ領域に近付けることに成功しているし、今後も“コネクション”という言葉に相応しいネットワークの構築を通して新たな技法の導入=より実用的でより魅力的な製品群の構築を目指す長期的ビジョンに立ったシステム造りを目指しているのだ。
そして、そのことは同時にものをゼロから大量に作り出してそれを流通させて行く近代産業社会の合理的と自称する大量廃棄を前提とするシステム自体を、かつて存在していた余す所なく素材として活用する文化を再興することで批判しようとしているに違いない。
だからこそ、藤はこの“ビニプラ”の活用技術として“ポリクラフト”という新たな工芸の構築を目指すのだろうし、最初の箱根彫刻の森美術館の“ビニール・プラスチック・コレクション”から“ビニール・プラスチック・コネクション”へと発展させ、糞尿すら素材としてリサイクルするのが当り前だった時代に近い循環のネットワークを目指すに違いない。
言換えるならば、藤浩志がこの“ビニール・プラスチック・コネクション”というOS(基本システム)型アートで表しているのは、日々の暮し・仕事の中から生まれ出て来る全てのものを活用可能な素材として捉える考え方の復興こそが、永続可能な本当の豊かさに繋がる…という思想であり、その為に必要なシステムを生み出して行く基礎部分の構築という新たな概念なのである。
こう書くと、まるで藤浩志がゴミ問題に代表される環境問題が深刻になり、リサイクルということが社会的に話題になった状況に乗っかろうとしてこうした作品を生み出そうとしているかの様に思われるかもしれないがそれは穿った見方だろう。
何故なら、彼自身が美大卒業後に美術の道へ進むことに迷いが有った時代に海外青年協力隊でパプアニューギニアへ行った時の経験を元に、その後のアート活動でしばしば用いて来た概念である各々の社会・場に相応しい誰でも無理無く出来る“適正技術”という考え方がこの“ビニプラ”の基礎あるのであり、決して付焼き刃ではないのだから…
実際この“適正技術”という考え方がベースにあるからこそ、現在行われている行政主体の理念無き現状対応型の単なる分別回収でも無ければ、使命感のみに頼ったボランティア的環境保護活動としての資源回収でも無い“ごく普通の生活を送りながら楽しみとしてリサイクルが出来る社会の構築”という理念がリアリティを持つのだろうし、それがアートとして提示することが出来るレベルに達すると同時に真に実用的なリサイクルシステムとなり得るに違いない。
そう思える程、藤浩志の地道ながらも美しく楽しいリサイクルシステム“ビニール・プラスチック・コネクション”は、自然溢れる山の中でも、決して嫌味な社会性ではない極々自然な魅力に満ち溢れ、私達を仲間になるよう誘っていた。
(公開ディスカッション:8月19日、ポリクラフトワークショップ:8月20日)
(8月27日(日)まで)

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「戸谷成雄」(ケンジタキギャラリー・名古屋・本町)
〒460-0008 名古屋市中区栄3-20-25 TEL 052−264−7747
地下鉄名城線矢場町駅徒歩10分、または、地下鉄東山線・鶴舞線伏見駅徒歩10分、または、地下鉄鶴舞線大須観音駅徒歩10分。
本町通沿いのビルの1・2階。名古屋市美術館からも近い。

チェーンソーでゴツゴツと荒く削られた表層を持ちながら、どこか柔かな印象を受ける抽象的な木の彫刻…というのが戸谷成雄の作品の代表的なイメージだろう。
では、そうした逆説的な柔かなイメージはどこから来るのだろう?
その答の一つは海・山・川に崖等の荒々しく削られた部分を含みながらも全体の自然の光景が必ずしも恐ろしさを感じる様な激しさ・怖さを感じさせるのではなく、むしろそれによって生み出される陰影や削られたラインが全体として描き出す大きな曲面の柔和さ等の故に優しさを感じさせるのと類似しているという点にあるだろう。
勿論それだけではなく、他方ではそうしたゴツゴツとした突起状のものが残された形に胃腸などの内部の柔かな突起を想起したりする辺りにもその理由が隠されているに違いないが…
当然今回の新作もそうした作品の延長線状にあるのだが、これまで以上にぐっとソフトな印象が強い。
例えば1階のインスタレーションは全体として一つの巨大な長方形を構成するという無数の小さなブロック(と云っても1つ1つが結構大きなものだが…)に切り刻まれ床にバラバラに展開されていて、これまでの巨大な塊の持つ迫力に満ちた展示とは大きくイメージが異なる。
何しろ小さく切り刻まれたが故に迫力を失ったオブジェ達は、本来なら十分に大きいにも関らずそんなイメージは消え失せ、むしろどこか焼き肉やの鉄板の上にホルモンやハツ等の食べ易いサイズに切取られた内蔵肉が置かれている様を想像してしまう位小さくて柔かなイメージへと変化してしまっているのだから…
普通に考えれば、小さく切り分ければその中に於けるチェーンソーの削り込んだ表層の荒々しさはぐっと引立てられそうに思うのだが、切り分けたもの一つ一つを単体として作品化するのではなく、インスタレーションという形で床の上に点々と見下ろせる様に設置されることで、そうした荒々しさは全体の中のほんのカケラの表面の一部を構成するに過ぎないものへと大きく印象を変えられてしまっている…としか云い様が無いのだ。
逆に云えば、それ位個々のピースから全体の集合体を想像させる様な印象を与える見事なインスタレーションであるこの作品は、私達に実際に目の前に広がるオブジェを見せているというより、より大きな全体が一つになった実在しない別のものを見せていると云って良いだろう。
と言うことは、この作品は表層のみしか見せることが出来ない彫刻というシステムの限界を超克しようとして、内部へと切込んだ彫刻・表面側の表層のみならず裏面の表層までも見せようとした彫刻等の既存の彫刻の枠組みを揺さ振る作品を作り続けて来た戸谷の一貫した作家活動の一環として生み出された見えないものを想起させる彫刻というものとして捉えることが出来るのだ。
これに対して2階の四角い箱を重ねた様な作品は、よりストレートに彫刻の表層と内部の関係に言及したものと言って良いだろう。
何しろ箱の表面にはこれまでの戸谷の作品のトレードマークであるチェーンソーで削り込まれたゴツゴツとした切削面は存在せず、その箱が設置された部屋の壁に掲げられたドローイングの様なもので、その中に戸谷のお得意のゴツゴツした部分が内側に向けて隠されているのかもしれないことを想像させるだけなのだから。
そうすることで戸谷が表現したいのは、どうやら私達はあくまで表面しか見ることが出来ず、彫刻であれ肉体であれ内側は普通に目で見たのでは見えない…という見ることの限界であり、その限界をどう想像力でカバーして乗越えるのか=即ち、ものを見るということの本質的な意味への問い掛けであるに違いない。
そう考えれば、1階の作品も2階の作品も彫刻を見るとは何なのかということへの問い掛けとして、見えないものを想起させようとする…という極めて野心的な試みと見るのが自然なのだろう。
(9月28日(木)まで)

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「音のかけら‐金沢健一」(新津市美術館・新潟・新津)
〒956‐0846 新潟県新津市蒲ヶ沢 花と遺跡のふるさと公園内
TEL 0250‐25‐1301
新津市ホームページ」
JR信越線&羽越線新津駅より車で15分、又は、信越線古津駅より徒歩20分。

吹き抜け状のエントランスロビーから建物の奥の方まで続くつるつる光る白い石材をふんだんに用いた明るさと白さに満ちた大階段…そんな映画か舞台かにでも出て来そうなインパクトの強い構造を持つこの美術館のエントランスの大階段の踊り場部分に置かれた10個のクロスを掛けられたテーブル。
そんな“はじまりの為の10のテーブル”と名付けられたインスタレーションでは、テーブルの上に置かれた木の玉や様々なマレット(バチ)でテーブルを叩くと…同じテーブルでも叩くところによって全く違う高さの音が奏でられる。高く澄んだ音がするかと思えば、別の場所ではもう少し低いどっしりした音がしてみたり…一見パーティー会場にも見えるクロス掛けのテーブルの上品なイメージは一転し、たちどころに楽しい音遊びの場へと変化する。
楽しげにテーブルを叩いたり、玉を転がしたり落したり…次のテーブルはどんな音がするのかわくわくしながら階段を上って行けるのだ。
そうしてメーンの展示室へ入り、床に置かれた鉄のかけら!?を同じ様に叩いてみると…先程の階段のテーブルの音の違いがどこから来ているのかが直ぐに判る。
そう、様々な大きさに切り分けられた鉄板が少し浮かせて設置されることで音階の違う美しい音が生み出されているのだということを…
勿論そうした音階の高さを科学的に説明すれば、その鉄板の大きさ・硬さ・厚み等の諸要素のバランスで音階が決まる…ということになるのだろうが、そんなことよりももっとシンプルに楽しい作品である。
まるでポケットの中で叩き割られたビスケットの様に、17個ある一枚の大きな円形の鉄板を様々な形に切り分けて作られたアトランダムな大きさ・形の鉄のかけらが、その大きさ・形故に違う音を奏でるという見た目と音のシンプルな組合せの綾の面白さ…その素朴で無骨な姿と美しい音色、叩いたりこすったりするのに使うマレットの素材での変化の楽しさ、そしてそこで大人も子供も関係無く嬉しそうに叩きまわって音と形を楽しむ姿…金沢健一の“音のかけら”の醍醐味はまさにそんなところにあるに違いない。
その他にもこの“音のかけら”シリーズの更なる展開として生み出された他の作品もなかなか面白い。
“形の音階”は、テーブル状の各々一点の支点の上に載せられた同じ大きさの丸・三角・四角・五角・六角・八角の磨き上げられたステンレスが音を奏でると同時にゆらゆらと揺らめき、丸・三角・四角・五角・六角・八角の反射した光が天井で交わったりしながら揺らめくポップで幻想的な世界を生み出し、無骨な“音のかけら”シリーズでは異色の魅力に富む。
また、正方形の鉄板にまるでドローイングを描く様に切れ目を入れた“ドローイング‐音”は、そのスリットの入り方で鉄板全体が部分部分で違う音を奏でるという形でそれまでの切り離された“音のかけら”シリーズとは違い、音を奏でる根源にある振動のもっと微妙な綾があり、どの当たりを叩くとどんな音がするかがより曖昧でそれを手探りで叩いて行く探検の様な楽しさがあり、ある意味では“音のかけら”に一層の深みを持たせることに成功しているといえるだろう。
それに対して、同じ部屋にある“振動態”シリーズの作品は形というビジュアルと音の関係性というこれまでの“音のかけら”シリーズの展開から大きな飛躍を見せている。
確かにこの作品も“振動態‐正方形”“振動態‐円”と名付けられていて形も正方形と円というビジュアルと音の関係性を打出しているとはいえ、この作品に於けるメーンは針金に付けられたゴムボールで擦ることによって生み出される振動で音が奏でられると同時に、その鉄板の振動をその上に置かれた様々なものが跳ねたりする姿を通してビジュアル化している点にあり、それまでの作品の形というビジュアルと音ではなく、振動のビジュアル=音自体のビジュアル化し、まさに音の彫刻というのに相応しいものになっているのだ。
こうした流れは1階の“鉄の震域”という作品にも共通しており今後“音のかけら”シリーズの新たな方向性として一層の深みを帯びて行く可能性を秘めており、実に楽しみな展開である。
鉄の彫刻に取組む過程で鉄の素材性の探求をする中からひょんな調子で生まれ出た鉄と音の楽しい関係性…金沢健一の“音のかけら”の魅力が存分に楽しめる美術館での初個展は、わくわくする様な楽しい新たな美術の誕生を強く印象付けるものに仕上っています。
(10月15日(日)まで)
(8月26日(土)・9月23日(土)・10月15日(日)パフォーマンス開催)
(8月27日(日)・9月3日(日)・9月24日(日)・10月1日(日)ワークショップ開催)

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「大地の芸術際‐妻有アートトリエンナーレ2000」(新潟県妻有郷:十日町市・松代町・松之山町・中里村・津南町・川西町)
越後妻有大地の芸術再実行委員会事務局
〒948‐0003 新潟県十日町市宇都宮71(旧十日町シルク内) TEL 0257‐57‐2637
妻有アートトリエンナーレホームページ
上越新幹線越後湯沢駅、又は、信越線&北陸線直江津駅より北越急行ほくほく線に乗り、十日町駅又は松代駅下車。
会場を結ぶシャトルバス、又は、車で回る(バスは時間の問題が有りお奨めできないが、松代は“マジマートキャンペーンカー”がお勧め)

日本一の豪雪地帯で日本一長い信濃川が流れる中越南部…ここが別名妻有郷と呼ばれるこのトリエンナーレの舞台である。
小高い山々と豪雪に閉じ込められた無数の棚田の有る美しい山間の小さな集落が点在し、そこで良くも悪くも昔乍らの田舎らしさが残されて来た地域だが、そうしたものを維持できなくなりそうなぐらい過疎化と高齢化が極限まで進む典型的な地方の苦しみにもがいている地域でもある。
そんな近代的産業都市とは対極的なこの地方でこの“大地の芸術祭”と名付けられた現代美術のお祭りが大々的に行われる様になった理由は、当然のことながら箱もの行政と云われる土木中心の行政では結局過疎化の進む地方を救えなかったという意識が根底にあるのだろう。
だから、ソフトだ、里山文化の見直しだ…という考え方が生まれ、その延長線状に“大地の芸術際”という構想が出て来たのだろうが、そうした里山と過疎地振興に変に引き摺り回された感が否めない。
何しろ、本来なら見る側の便宜を図る為にある程度集中設置されるべき作品が、実にシンガポールや琵琶湖よりも広い762平方キロという広大な地域に散らばって設置された結果、シャトルバスは使いものにならないし、レンタカーで廻った私などは二日間で約400kmも走りながら作品を見落す始末である。
やはり、ベネチア・ミュンスター等の欧米のローカルな町で行われている芸術祭が伊達に小さな町の公園を含む町中に集中設置されている訳ではないのだ…ということを痛感せざるを得ない。
そうした分散設置による弊害は単に廻る側の負担に留まらない。余りにも広域に及び余りにも点数の多い作品を見て回ろうとする余りに、ついつい駆け足の様に必死になって作品巡りをしてしまう観客達は、良い意味での田舎らしさとしてのゆったりとした時を過ごせないばかりか地元の名産品をゆっくり味わう余裕すら失われてしまうのだ。
これでは、大地に根差した里山文化の再発見等という当初の狙いは完全に霞んでしまうのでは無いだろうか?
もし、どうしても他の作品の干渉を避ける為に里山の風景の中に各々1点の作品しか置かないならば、それを廻る為のシステムをもっと考慮すべきだろうし、またそうしたルートを廻る中で自然と地域の味などを味わい易くする工夫などももっと必要だと感じざるを得なかった。
勿論そうした問題点にいち早く気付きそれを作品化した作家もいる…間島領一である。
6市町に及ぶ妻有郷の中から最も雪深い山間の町松代を会場として選んだ間島は、北越急行松代駅に“屋台マジマート”という食べ物を売る屋台を設置して、“大地の芸術際”名物の食べ物を提供すると共に松代地区の中ですら分散している作品をほぼ全て見て廻ると同時に地元の観光スポットを面白おかしい解説と共に味わえるという“マジマート・松代・キャンペーンカー”という乗合タクシーを巡回させ、道に迷いながらへとへとになって廻る観客に一時の安らぎと喜びを感じさせながら今回の芸術祭の問題点を浮き掘りにしているのだ。
勿論間島がこうした作品展開は、煮ても焼いても食えない名物を自称する地元のタクシー会社・東部タクシーの村山社長というユニークな傑物に出会いなくしては語れない。
何しろこの名物男は大地の芸術祭の本質をあっさりと見抜き、一見算盤に合いそうに無いこのプロジェクトに自ら積極的に関ることで逆に自分が売り出したい観光スポットをこのキャンペーンカーのルートへと織込むなど徹底的に活用しており、芸術祭を企画した県が最も期待した良い意味でしたたかさを見事に発揮していている好例である。
そんな地元の隠された観光スポットの卵の発掘も勿論間島領一の方から作品の一環として盛り込む様に当初から意図されたものではあるのだが、こうした投掛けはこの村山達三の様な貴台の受け手のがあってこそ始めて完成するコラボレーションそのものであり、この名コンビ無くしてはこの“大地の芸術祭”を代表する作品は語れないだろう。
この他にも松代地区には比較的面白いものが多いが、中でも、イリヤ&エミリヤ・カバコフの“米の実る里山の5つの彫刻”という作品は、松代の城山の麓に広がる棚田の段差を有効に活用して昔の稲作作業の様子を模した大きな黄色と青の原色の人型を棚田に置き、駅の近くの谷底に設置された見学位置の少し前に設置されたテキストと合わせて稲穂が風にそよぐ棚田の風景をバックにした美しい一枚の絵物語を描き出すことに成功している。同様のことは、各々の棚田にそこの地主の家族と模した赤い人型を置いた大岩オスカール幸男の“かかしプロジェクト”も緑に燃える棚田を背景に赤という鮮やかな色彩で対抗し、美しさの中にその棚田の物語性を込めることに成功した作品にも言える。
彼らはこの妻有地域を特徴付ける棚田の持つ絵画的なステージ性を活用している辺りから案山子的過ぎるという批判も無い訳ではないが、そうした批判はさらりと受け流し、都市の中とは異なる農村らしい絵画的芸術性の発揮に成功していると云って良いだろう。
そんな大地を背景に人工的な強い色彩を用いて浮び上がらせる絵画的作品とは対称的にしっくりと溶け込み佇む作品もある。
里山の林の中に置かれた植木鉢等に隠したスピーカーから松代を歩いて拾い集めた音が微かに流れるロルフ・ユリアスの“歩く”は、恰も虫の音や落ち葉の崩れる音などの自然のささやかな音を拾い集めたものだけに、実際聞いていても自然の中に溶け込み判然としない…それ故に観客は自然のしじまに耳を澄ませ、本当に自然に帰る気持ちになれるのである…そう微かな音を味わえるくらいでこそ本当の自然への回帰だということを静かに諭す様に。
これに対して、田舎らしい野外の自然を背景にした作品展開に全く背を向け、一種都会的とも云える金属による自然を思わせる表現を屋内に展開するという作品を発表したのが熊井恭子である。
外の景色はおろか外光すら排した電灯だけで照らされた室内にステンレスのワイヤーで作られた草むらを思わせる光り輝くインスタレーション“凍える風”は、自然やノスタルジックな田舎の雰囲気に頼り過ぎた他の作品と見事なコントラストを示すかの様に燦然とした美しさで見る者を魅了している…田舎の自然に合わせ過ぎて美術としてのレベルを割り込んだ作品達をあざ笑うかの様に。
<十日町地区>
鉄道での大地の芸術祭への玄関口である十日町の駅を下りると商店街の両側の歩道のアーケードの上に色鮮やかな縞模様の幟が賑々しく出迎えてくれると言いたいところだが、余りにも人通りの無い寂しげな街に並べられると、本来のお祭や商業の賑やかなイメージは消え失せ、逆に人気の無い街の異常な寂しさに悄然と立ち尽すしかない…という気持になる。
勿論こうした光景は十日町に限ったことではなく、近年の自動車社会化の進展に伴う繁華街の壊滅=町の顔の消滅という普遍的な問題であり、今や何処でも見られる寂れた中心街の典型に過ぎないのだが、ダニエル・ビュレンが並べた幟の色鮮やかで規則的な美しさが没落した人気の無い町並みの静けさ・侘しさと鮮やかなコントラストを作り上げることで、人通りが失われることの問題が鮮やかに浮き彫りにしてしまう…果して再生は可能なのだろうか?疑問に感じる程に。
勿論こうした街の没落を感じさせるのは、別にダニエル・ビュレンの作品に限らない。
旧市街地の外れにある旧十日町シルク跡の何も無い空き地に作られた十日町ステージは、如何にも安っぽい仮設の建物と砂利を敷いただけの駐車場と鉄パイプとベニヤで作られた如何にも急ごしらえの屋台用のスペースが殆ど使われずに炎天下にその無残な姿を晒し、やはり没落した町の寂しさを感じさせてしまう。
どうやら本来はここで色々な地場産品を売る市が立ったり、のみの市の様なことが行われたりする場所であったらしいが、ごく一部のイベント開催日以外は閑散としているらしい…これでは逆効果だろう。
とりわけ、アン・グラハムの遊園地のメリーゴーランドを真二つに分けそこから回転する木馬を取り去った様な二つの半円形のステージの作品等は、折角客が見込めるお盆休みに何も使われずに単なる記録写真がステージ奥に貼られているだけという状態で、ほとんど意味を為してないし、トリエンナーレセンターの建物内の展示も迫力に乏しく些か拍子抜けの感は否めない…これが、妻有トリエンナーレの中核となるセンターなのだろうか?…とがっくり来る人も多いに違いない。
これを救ってくれるのが、佐藤時啓のカメラオブスクラを用いた二点の作品である。
中が真暗にされた細長い蛇行するテントへと足を踏み入れると、それまでのぎらぎらした眩し過ぎる光から一転やわらかな光に包まれた町の景色が見えて来る…小さなピンホールから暗箱に入り込む光が写し出す世界は、始めて見る何気無い地方都市の景色をファンタジックでノスタルジックなイメージへと変え、見る側の気持ちをやわらかく解きほぐす。
勿論アジアの国々で走り回るリキシャを改造してカメラオブスクラにした作品も同様だが、こちらはそれがボランティアの運転のお蔭で動き回り刻々と景色を変えて行くのが楽しめる…が、慾を言えば侘しいトリエンナーレセンターではなくもう少し活気があって景色が楽しめる場所で乗りたかった…というのが本音である。
それに比べると、雪国の里山の美しい光景を上手く生かしたホセイン・ヴァラマネシュの“雪の記憶”は、空間の選択を含めて成功していると云って良いだろう。
木漏れ日の優しい光が降り注ぐ山麓のブナ林の木々の間に、まるで白い梯子や白い家や白い横線が宙に浮かんでいるかの様に設置されたそのインスタレーションは、里山を妖精の世界を思わせるファンタジックな世界へと変質させる。
その光景は恰も冬の豪雪が溶けた時にそこにお伽話に出て来る妖精の国が表れたかの様な夢の世界が目の前に存在しているとしか思えないほど詩的で美しい。
そう、こんな光景を紡ぎ出し、里山の別の魅力を導き出せるのもやはり美術の力だろう…そう思えるホセイン・ヴァラマネシュの作品は、まさに“大地の芸術祭”に相応しい見事な出来映えで、私達を里山の中へと誘う雰囲気造りに成功していた。
<中里地区>
この地区のメーン会場となった信濃川沿いのた温泉施設“ミオン中里”へ行く途中にある緑豊かな山間の田舎の風景を背に木が宙に浮かんだ作品…ホン・スンドの“妻有で育つ木”。
その宙に浮いた奇妙さは植木鉢やそれを吊り上げるワイヤーやポールのステンレスやメッキの燦然とした輝きと相俟ってその人工性を強調することで、そこに植えられた木の持つ自然のイメージは帳消しにされ、むしろ逆に背後の雄大な自然の光景とのコントラストを作り出す。
そんなホン・スンドの作品は、“大地の芸術祭”という妻有アートトリエンナーレの名前への疑義すらも含む様々な問題を投掛けていると言って良いだろう。
木や草花を愛することが自然を慈しむことなのだろうか?大地とか自然とかというものが果してアートや近代文明に生きる人々の徹底的な人工世界と相容れるのだろうか?…そんな疑問を敢えて投げかける為に地面という自然から切り離され、銀色に輝く人工の世界へと浮び上がらされた木は、自然を背景にした強烈な人工性を帯びたオブジェそのもの。
そこに私達近代都市に住む人間の歪んだ自然観=自分達に都合良くコントロールできる自然を好む感覚が写し出され、宙吊りにされている様に感じるのは私だけではないだろう。
これに対して、そうした人間の作り出したものの強さではなく、逆に打ち捨てられ弱々しく自然に帰って行く様な優しい人間性が前面に打出されているのが北山善夫の“死者へ、
生者へ“だろう。
山奥にある廃校の小さな木造校舎の体育館を兼ねたホール部分に蛇がうねる様に宙に浮かぶ大きな竹のオブジェの手前に、無数の羽根の付いた椅子の形をした天に昇るかの様に宙に浮かぶ…そんなオンボロ校舎の中に出現した天使の様な世界は、子供のいない静けさと相俟ってそこから消え失せた賑わいへの鎮魂歌の様な寂しさと懐かしさを感じさせられる。
たとえそこに子供達の書いた絵や落書きなどが残っていようとも、たとえそこにアーチストが何か新たなオブジェを置こうとも、子供のいない学校は最早それだけで既にノスタルジックで寂しげなのだろう…だから、そこに紡ぎ出されるイメージは“つわものどもの夢の跡…”という言葉を想起させる様な人影が消滅しやがて自然に帰って行く様な人工物の弱さに成ってしまうのかもしれない。
<津南地区>
この芸術祭の会場となった6市町の中で唯一メーン会場にほぼ全作品が終結した形に成っている地区である。
山の上の小さな高原状の場所にあるマウンテンパーク津南というキャンプ場の中に入り中央の池の辺に進むと円環状の真白なオブジェが浮かんでいるのが見える…西雅秋の“ベッド・フォー・ザ・コールド”という作品である。
その一見真白な雪を思わせる風貌を持つオブジェはクソ暑い新潟の夏を忘れさせる様に涼しげに浮かんでいるのだが、冬になればまた違った姿を見せるに違いない…何しろ、中が発泡スチロールになったオブジェはその上に雪が降ると理屈の上では廻りの池や芝生などよりも先に先に雪が積もってこんもりと盛上り美しい円環状の雪が池に浮かぶ光景が出現する筈…そう雪の為に池に浮かべられたベッドなのだ。
そんな自然を利用しながらもそこに人工的な手を少し加えることで自然では有り得ないファンタジックな光景を作り出す…こんな作品こそ、この“大地の芸術祭”という言葉のイメージに相応しい作品だろう。
そうした人の手と自然の融合が生み出す光景というコンセプトは色取り取りのちびた鉛筆を小さな小屋の中に並べて窓から覗きこむ本間純の“森”にも共通している。
一寸離れたところからさらっと見ると単に無数の鉛筆を小屋の中に立てたインスタレーションに過ぎない様に思えるこの作品だが、窓に顔を近付けて覗き込むとそのイメージは一変する。
家型の小さな小屋の中の窓と同じ高さの床にカラフルで可愛らしい小さな古鉛筆が無数に立ち並ぶ小さなファンタジックな小人の森は、反対側に作られた窓を通して見える本当の森とコントラストを為し、まるで森の中の小人の世界に迷い込んだ様な気持になるのである。
そう、彼は単に家型のオブジェの中だけの世界を見せているのではなく、むしろその背後にある自然の森をファンタジックな夢の世界に位置付ける為に、その中にちびた鉛筆の森を作り上げていると云っても良い程見事に廻りの自然を作品の一部とすることに成功しているのである。
それに比べると…蔡国強の“ドラゴン現代美術館”は、現在の普通の美術館のあり方への批判として空調・防犯設備の無い美術館というアンチテーゼを掲げるというアイロニカルな姿勢は兎も角、その実態はお寒い限りである。
何しろ中国から古い登り窯を単に津南の山中に移設しただけの状態なのだから…
そんな状態で公開してしまったのでは、自ら箱もの行政としての美術館建設をしてみせるというアイロニーにしかならない…やはり、そこを美術館として運営する準備が出来上らなかった今回は公開を見送るべきだったのではないだろうか?
パスのチェックポイントという有料の展示の一つだっただけに些か疑問を感じざるを得なかった。
<川西地区>
この地区のメーンといえば一般的にはジェームズ・タレルの“光の館”だろうが、この作品を本当に味わうには運が必要だ。
室内や風呂場などに設えられたタレルらしい仄かな光を味わうにはやはり宿泊をして夜に楽しむしかないし、天井が開いて見事に切取られた美しい空を眺めるには雨の可能性の無い晴天が必要なのだから…
筆者が訪れた時には雨が降って畳が濡れるといけないとのことで屋根が閉じられていて空を見ることは出来なかったし、それでいて曇りがちとはいえ真夏の明るい日差しが射し込む室内は明る過ぎタレルがここに仕掛けたか…というカラクリを垣間見ることが出来ただけだったのは、甚だ残念だった…やはり天気の特異日にでも予約して見に行くしかないのだろうか?
だが、この様に天候に恵まれずタレルの作品を十分に味わえなかったとしても、雨さえ降らなければ楽しめる作品が勿論存在する。
その中心になるのが節黒城跡〜ナカゴグリーンパークに及ぶ広大な川西ステージである。
グリーンパークのある場所から一段登った道沿いに背後の緑から白く浮び上がる爽やかな雨避けの屋根の付いた細長い待合所の様なもの…がPHスタジオの“河岸段丘”という作品である。
膨大な手間を掛けたフィールドワークの結果、妻有の特色を信濃川の両岸に形作られた日本最大の河岸段丘にあると考えた彼らが、最終的に作り上げたこの作品は、信濃川へと階段状に下りて行く雄大な河岸段丘を眺める展望台であると同時に、そこを通って山頂にある節黒城まで登って行く人々が一服する手の洗える休憩所でもあり、そして時にはこの山へのチェックポイントとして門の様な機能も果す多目的な東屋である。
真夏の猛暑に見舞われる妻有の夏を走り回る人々にとっては、ここの手洗いの水の気持ち良さ・緑をバックに映える白い優美な曲面を持つ爽やかなイメージ、そして、そこから眺めた信濃川から続く雄大な河岸段丘の景色が妻有の猛烈な蒸暑さと共に強く印象付けられるに違いない。
この一見都会的で妻有らしさに欠けるかに思われがちなこの作品だが、良く見るとその都会的なクールさを逆手にとってこの地域を特徴付ける暑さ・緑の豊かさ・広大な河岸段丘を引立たせ、私達をこの地の魅力へと誘っているのが判る…これが私達現代人から見た田舎の醍醐味の表現なのである。
そんなアプローチし易い道路沿いの作品とは打って変って節黒城へ向う山中に作られた作品は何れもアップダウンの激しい山の獣道に毛が生えた様な険しい道の奥にある作品が多い。
曲りくねった山道の途中で車を降り谷底へ向って砂利道を下って行くと草むらの蔭に小さな家の模型が置かれている…クー・ジュンガの作品である。
廻りの草よりも遥かに低い小さな家はまるで大草原の小さな家の様に燦然と輝き、思わずそこに様々な物語を想像し始めてしまいたくなる程詩情に満ち、人々の足を止めその心を癒してくれる…なかなか魅力的だ。
それとは反対に山道を登って見て廻るコースに設置された作品は大変である。
猛暑の中アップダウンの激しい山道を汗だくになって歩き回らされる観客は決して心安らかに作品を見る余裕など無いのだから…
その中ではジョゼ・ド・ギマラインシュの“詩人の瞑想の路”がシンプルで色鮮やかなオブジェを用いたインスタレーションで異彩を放っていたが、残念ながら山道で体温が上がっているところに日を遮るものの無い切り開かれた広場では瞑想どころでは無い…というのが本音だろう。
そういう意味ではこの作品は設置場所を間違えた様な気がしてならない…それ故に折角の美しいオブジェの魅力を生かしきれないインスタレーションになってしまったというのが本当のところだろう。
<松之山地区>
日本三大薬湯の一つである松之山温泉の温泉街から外れた山中の小さな集落にある古い民家を改造したマリーナ・アブラモビッチの“夢の家”がある。
その名の通り夢を見る場としてのこの家では、赤・青などに着色された窓から射し込む光が室内全体を一色に染める中棺桶の様な木で出来たベッドの中で大理石の枕をして眠り、夢を見てそれをベッドに備え付けられた夢の本に書き残して行くという作品。
テレビはおろか照明すらない暗めの室内に着色された光が醸し出すムードはそれ自体が日常には無い夢の様な不思議な状態にあるこの空間で人々はどんな夢を見たのだろう?…一室一室異なる色の光で彩られているだけに、その色が見る夢を変えるのだろうか?…そんな様々な想像が頭を過る哲学的な夢の世界は、肉体を極限まで追い詰めるパフォーマンスを数々こなして来たアブラモビッチがそうした極限状況で味わった不思議な感覚そのものなのかもしれない。
そんなストイックな世界から一転して牧歌的な大厳寺高原のキャンプ場へ入ると道路脇の草原の中に銀色に輝く金属の格子で出来たオブジェが燦然と表れる…真板雅文の“悠久のいとなみ”である。
日本の門柱を思わせる柱状の作品とその奥にある左右対称の半円形の二つのオブジェの間を真正面に見れる場所に立つと、一見何気無い銀色のグリッドのオブジェが極めてシンボリックな光景を創出し、まるで見事に構成された庭園の中にいる様な錯覚に囚われる。
そう、左右対称に置かれた4つのオブジェの間の通路の真正面に草原の中に立つ木が枝をん広げている姿がぴたりと嵌まり、しかも、その木の下から反対方向を眺めると同じ様に池の近くにある別の木が見事に正面にぴったりと嵌まり、こちらも完全に庭園的な光景を生み出しているのだ。
そんな借景を思わせる空間構成の見事さは最早単なるオブジェを超え、風景創造的なインスタレーションの域に達したと言って過言では無いだろう。
これに対して、高原の中にある池に金銀に塗られた小船や木の葉を模ったオブジェを浮かべたフィオナ・フォーリーの“達磨の目”は、周囲の草や池の水等の自然の色と全く異なる金銀を用いることで、そのオブジェにこの世のものとは思えない幻想的な雰囲気を与えて周囲を一変させる。
そんな美しく儚い何処か浮世離れした雰囲気こそが、何処にでもある様な商売気が滲み出たリゾートとは正反対に私達をゆったりとした気持ちにさせ、真のリゾート気分を味わわせてくれる…これぞリゾートの本質ではないだろうか?
そう思える程心洗われるフィオナ・フォーリーのインスタレーションは、近代化の課程で安らぎを見失ってしまった私達に心の安らぎを教え諭す様…確かに“達磨の目”だと納得してしまう。
そうかと思うと、村岡三郎の様に野外に設置しながら、自然をビジュアルの対象から事実上外す様に中へと客を誘う作品もある。
緩やかな斜面に作り上げられた芝生広場の一角に直角に溶接された鉄の三角屋根が突き刺さる様に設置された無骨な作品だが、その趣きは何処か宗教的で大聖堂か何かに入る様な気持ちで思わず足を踏み入れてしまう。
すると剥き出しの鉄板の屋根の奥に真白なゴツゴツとした岩塩の塊が祭壇の様に床から天井までを占めているのが見える…まさしくストイックなシンプルさを持つ大聖堂の趣きである。
そんな村岡の作品の見事なイメージ構成を可能にしたのは、大地の芸術蔡という言葉に無闇に振回されることなく自然との距離を意識的に遠ざけ、見えるもの全体をコントロールしてやろうという明確な意思を示したことにあるに違いない…それこそが美術だという様に。
だが、そんな昼間に見る作品だけではなく、この松之山の夜に欠かせないは、月夜の晩に行われる逢坂卓郎の“ルナ・プロジェクト”である。
田毎の月と呼ばれる棚田に映る無数の月の話をモチーフに、天水越えと呼ばれる美しい棚田に一つ一つ置かれた鏡で月の光を反射させて美しい田毎の光を見せようというこのプロジェクトは月の出る方角や高さで日々刻々と変る月の光をきっちり観客の居る方へと反射させるという科学的なアプローチで美しい光の世界を生み出す作品であるが、僅かな角度の違いで鏡は輝いて見えなくなる為、輝くまでの待ち時間も長いし、輝く時間も短かいし、その上全てが光る訳でもない。
しかし、そんな無い無い尽くしが逆説的に生み出す…じっくりと待ち一時の儚い輝きを愛でるという風流さは、私達が日頃慌しさの中で忘れがちなゆったりとした時の流れを思い起させ、合理性を外す喜びに身を浸す贅沢を私達に味わわせてくれる。
これぞ最高の贅沢=最高の豊かさではないだろうか?
結局豊かさというものは合理性とは無縁のところにこそ存在しているのだ…そして、そこにこそ美術の存在意義があるに違いない。
(9月10日(日)まで)

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「多田満‐生物態」(ギャラリーアルテ・香川・丸亀)
〒763‐0024 香川県丸亀市塩飽町11‐1H&Fビル1F TEL 090‐4978‐0044
ギャラリーアルテホームページ」
JR予讃線丸亀駅南口より徒歩3分。
JR丸亀駅南口より駅前広場西端(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館前)の通りを南へ進んだ二つ目の交差点の左角のビルの半地下。

半透明で丸みを帯びた有機的な形のものが水中を浮遊しているかの様に描かれたCGをプリントアウトした平面作品…“生命態”と名付けられている通り有機的なイメージが漂うその画面は、CG特有の合理的でポップなからっとした感じとは正反対に滑りを帯びたイメージを受ける。
とは云っても本当にナチュラルな生命のイメージには程遠い…ピンクなどの極めて人工的な色彩の多用やラインの滑らか過ぎる辺りが人工的なイメージを醸し出すからだろうか?
そう、そこに描かれているのはロボットでこそないものの何処か人工生命体の様なイメージなのだ。
だとすると、彼が描いているのは現代のバイオテクノロジーの夢なのだろうし、それこそが機械と化学の夢の時代が終焉した後に残された現代のSFの世界であるに違いない。
(8月31日(木)まで)

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「中山ダイスケ」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・香川・丸亀)
〒763‐0022 香川県丸亀市浜町80‐1 TEL 0877‐24‐7755
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ホームページ
JR予讃線丸亀駅南口駅前(駅前広場西側)。

猪熊弦一郎美術館のロビーの吹き抜けの周りを囲む回廊状(といっても壁を作って部屋を仕切れるくらい大きいが)の展示室に足を踏み入れると、わざとピンぼけにしたボクシングやレスリングの写真を大きな白いキャンバスにプリントした作品が目に飛び込んで来る。
一対一で相手をノックアウトするまで戦う典型的な二つの格闘技系スポーツをモチーフにした“フル・コンタクト”と呼ばれる渡米後に作られたシリーズの作品である。
このシリーズの作品は、勝利のポーズを取る勝者と床に倒れ込んだ敗者とのコントラストの明快なボクシングの“ホワイト・ディスタンス”シリーズにせよ、激しく取っ組み合う姿を写したレスリングの“ゼロ”シリーズにせよ、何れも焦点を暈すことでそのポーズの全体像を朧げながらにしか把握出来なくし、イメージの抽象化を図ると共に激しい攻撃的な印象を薄め様としている。
それに加えて、ヴィデオ作品では接近し過ぎて勝負できない膠着状態からレフリーガ引離すシーンを集めた映像でヤマアラシのジレンマの逆ヴァージョンの様な状態を描き出し、戦いを含む人とのコミュニケーションに於ける適度な距離の重要性を浮き掘りにしている。
その結果浮び上がって来るのは、ボクシングやレスリングを行う二人の間の関係を単なる戦いの代償行為として見るのではなく、むしろ小中学校などに於ける友人同士のプロレスごっこに代表される様なコミュニケーションであり、勝敗が存在しかなり本気で遣り合うにしろ、そこには相手の様子を見ながら適当なところでテクニカルノックアウトで終わりを告げる様な叩きのめさない思い遣りが存在している…という適度なバランス感溢れる人間の関係=適度な距離・適度な切磋琢磨を含むコミュニケーションというものであり、これこそが中山ダイスケが表そうとしている主題に違いない。
そうした傾向は、渡米前の“デリケイト”や“カモフラージュ”“カー・オブ・デザイア”等の刃物・トゲ・罠などの攻撃的な刃を前面に押出した作品にも共通している。(カー・オブデザイアは残念ながら出品されていないが…)
ヤマアラシのジレンマの様な鋭いトゲの付いた西洋の鎧を思わせる二人の顔から腕くらいまでを覆う甲冑の作品“デリケイト”は、恋人や自分の子供への愛情に満ちた眼差しとも捉えられる甲冑のトゲ、そして両者の間の距離を固定し直接触れさせない鎧の硬さ…その奇妙な距離感・拘束感・攻撃性の組合せで、恋人や親子を含む二人の人間の間のコミュニケーション=愛情の持つ二面性を思わせ、愛情と拘束=触れ合うことと距離を保とうとすること…そんな微妙な愛情の綾は一歩間違えば攻撃性へと向かい、昔から恋愛関係のもつれから来る殺生沙汰や親子・親戚等の間に生じる近親憎悪等が絶えないことを思い起させられてしまう。
それに対して、動物捕獲用の罠を白く塗りそこに赤い玉点々と描いた“カモフラージュ”は、可愛らしさの中に潜む残虐性という意味で童話の中や子供の遊びの中に潜む残酷さを感じさせる一方で、男の下心を持った優しさや、男が女性の可愛らしさに釣られてしばしば振り回される様を思い起させずにはおかない。
こうして二つのシリーズの作品を同時に見てみると、どちらの作品も男女の恋愛に代表される人間のコミュニケーションの持つ両義性を見事に見事に浮き掘りしているのに改めて気付かされ、その一貫性を強く印象付けられる。
それだけにこうしたコミュニケーションの両義性というテーマは渡米後の他の作品にも当然共通してみられる。
ファッションの広告を思わせる6人の男女が楽しそうにじゃれあっているかの様なイメージの巨大な写真のポスター風の作品ですごく楽しく遊んでいるみたいなモデル達が実は刃物で互いに刺し合っていたり、ベッドの上で恋人同士ナイフで刺そうとしながらがじゃれあっていたり、老夫婦が互いを労わるかの様に肩寄せ合いながら刺し合っていたり…という“ナイス・トゥ・ノウ・ユウ(貴方に会えて良かった)”シリーズやそのイメージをビデオ化した朝食を摂るカップルを思わせる二人がナイフを研ぎ合いながら時々それを突付け合う“モーニン(朝)”に於けるナイフ等もまさにそうした延長線状であり、友人関係・恋人関係・夫婦関係自体が持つ愛情と表裏一対となった攻撃性をストレートに表していると云って良いのだから…
それだけではなく、そんな中山ダイスケのコミュニケーションとその裏側にあるものへの関心の強さを別の展開にした“アンダー・ザ・テーブル”もある。
二個のコーヒーの入れられたカップが置かれた丸いカフェのテーブルの下の影の部分でアトランダムに動き回る一対のボールはぶつかり合ったり離れて各々勝手に動いていたり…まるで二人のコミュニケーションの様に一定の距離の範囲内とはいえ刻々とその関係性を変えながら続いて行く…という距離感の変化は勿論表面にも出ることもあるだろうがしばしば裏面に隠され表には出て来ないに違いない。
だからこそ、そんなイメージを浮び上がらせるかの様に二つの球はテーブルの下で影に隠れて蠢くのだろう。
この様に中山ダイスケが一貫して取組むコミュニケーションの両義性は、私達が日々紡いでいる人間関係の複雑で微妙な距離感が生み出すドラマの根底そのもの。
それだけにそんな楽しさ・嬉しさに満ちた部分の一方でちょっぴり甘酸っぱく、ちょっぴり辛く、ちょっぴり切なく、ちょっぴり悲しい…コミュニケーションの複雑なテイストを感じずにはいられなかった。
(9月3日(日)まで)

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「猪熊弦一郎‐丸の言葉」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館・香川・丸亀)
〒763‐0022 香川県丸亀市浜町80‐1 TEL 0877‐24‐7755
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館ホームページ
JR予讃線丸亀駅南口駅前(駅前広場西側)。

獅子舞の布の模様を思わせる半抽象的な絵画“獅子舞”、梯子かあみだくじかそれともニューヨークに林立する摩天楼なのか判然としない模様が描かれた“ニューヨーク”“龍”、子供が段ボールか何かで作ったポンコツロボットみたいなものが描かれた“ロボット”等猪熊弦一郎の絵画は何れも定規やコンパスで引いた幾何学的でシャープな線は極力避けられ、人間の手による曲がりくねった線が用いられており、近代的・都会的洗練と云われる様な雰囲気とは対極の位置にある極めてプリミティブなイメージを強く感じる。
そんな素朴で人間臭い猪熊の絵は、ややもすると稚拙と云われかねない程の素朴な線に加えて、色彩や塗り方に於いても鮮烈さが周到に避けられており、かなり抽象性が高い作品であっても決して鋭い切れ味を感じさせることは無い。
そんな素朴な味わいは、それらの絵が20世紀後半にニューヨークで活躍した画家によって描かれたことを忘れさせ、恰も博物館で伝統的な民族文化を見ているかの様な気持ちにさせてしまう。
そうした猪熊の素朴で人間臭い感覚は単に絵画のみに留まらず、彼が制作した小さなオブジェにも共通している。
何しろ、猪熊が作り上げた掌に載る程小さいオブジェは、細い針金を指先で折り曲げるだけで作られたもの等であり、彫刻・オブジェという言葉よりもむしろ人と話ながらでも出来る指先の遊びと云った風情がする…と云った方が適切な位日常的でささやかなものなのだから…
そんな猪熊の作風は、モンドリアン達に代表される様なシンプルで幾何学的な近代化・産業化・科学化を礼讃するシャープな美術の流れではない、その対極とでも云うべきゴッホ達をルーツに持つアンチモダニズムの人間臭い美術であり、線の引き方から塗り方・色彩に至るまで徹底的に素朴な味わいに拘って制作し続けるという行為抜きには成立し得なかったに違いない。
つまり、この一見素朴で小学生にでも書けそうな絵画や誰でも針金細工の様な猪熊弦一郎の作品は、彼がニューヨークという近代の最先端の街で感じさせられた近代化の課程で急速に失われた人間臭さへの渇望の表れであり、名人がわざと手作り感を出す為に乱切りした手打ちうどんの様なしっかりした技術的な裏付けのある近代的で洗練されたプリミティブさなのである。
(10月15日(日)まで)

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「小澤剛讃岐醤油画資料館」(鎌田醤油本社内・香川・坂出)
〒762‐0044 香川県坂出市本町1‐6‐35 TEL 0877‐46‐0001(鎌田醤油内)
JR予讃線坂出駅北口より徒歩5分。

老舗の醤油メーカーの倉庫の一角に設えられた“讃岐醤油画資料館”。
その中へ入ると弘法大師が描いた醤油画の掛軸などと共に弘法大師が醤油画を描く姿を再現!?したものや、その後の近代の様々な名画を醤油で描いた醤油画、そして、ボクシング醤油画や醤油オブセッションの様な現代美術の作品まで美術史の流れを醤油画の歴史と称するものでパロディー化した作品がズラリと並ぶ。
この作品は、実は醤油の本場で弘法大師出生の地である讃岐の伝統ある醤油メーカー・鎌田醤油の社長が、福岡のアジアトリエンナーレの会場で小澤剛の“醤油画資料館”を見て“これは何なのだ”と思って確認してそれが創作だと知って大笑いすると同時に自分の処で楽しみたい…と思ったことに端を発して実現してしまったもの。
そんな“嘘から出た真”という言葉がぴったり来るこの作品であるが、明治維新後の文明開化と称する近代化=西洋化という道を歩みながらも、良かれ悪しかれ日本特有の文化的伝統から来る感性に影響され続けている現代日本人の文化というものをトホホ感溢れる表現で見せ続けて来た小澤剛の創作活動の流れの上にある醤油画シリーズの一環である。
何しろ、明治維新の西洋文明の急速な導入とそれに伴う西洋かぶれの誕生と、その反動から生まれた日本画・歌舞伎・雅楽等の日本古来の文化の伝統への偏執の間で起きた激しい葛藤に悩まされ続けている日本の文化状況こそが日本の現代美術を一とする現代文化の強い足枷であり、それへのユーモラスな批評性の表現として“醤油画”というものを発表しただから…
言換えるならば、日本画を洋画と区別する際の最大の根拠が今やそこで使われるメディウム(素材)の違いに過ぎない…という事実に着目し、同じ様に日本の伝統である醤油をそのパロディ的なメディウムとして用いることで皮肉ったこの“醤油画”シリーズであり、それ故に他の小澤の作品同様にその批判の刃が結局は自分達自身にも向いてしまうという自虐性を否応無しに内包するこの作品は、スカッとした笑いではなくトホホとした笑いを誘わずにはいられない。
つまり、小澤剛が表現しようとしているのは西洋文明の強烈な洗礼を否応無しに受けざるを得なかった非西洋世界に共通する文化の複雑骨折の上に生きている私達現代日本人にとっての文化とは?オリジナリティとは?伝統とは?…という疑義であり、自分達が拠って立つべき基盤の再確認の作業なのだろう。
だからこそ、それはしばしば情け無くトホホな感じに包まれてしまうのだ。
(常設展示)

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「野村仁−生命の起源:宇宙・太陽・DNA」(水戸芸術館現代美術センター・茨城・水戸)
〒310-0063 水戸市五軒町1-6-8 TEL 029−227−8120
JR常磐線&水郡線&鹿島臨海鉄道水戸駅より徒歩15分、または、茨城交通・茨城オート・関東鉄道バス泉町1丁目バス停より徒歩1分。
泉町1丁目バス停より西へすぐの信号を右折して、最初の信号の右斜め前の建物。
水戸芸術館ホームページ

太陽の一年間の動きを太陽の一日の軌跡を写した写真を繋げることでそれが∞の形となることを視覚化した“北緯35度の太陽”、ハレー彗星の動きを撮影した写真を元に打った点と点を結んで星図上に記した“天路1986年:ハレー彗星の回帰”、月食を一枚のフィルムに写し続けて地球の丸い影を視覚化した“影を通過する物体”、そして1年間毎日同時刻に同地点から意味のフィルムに太陽を写し均時差によって生まれるこれまた∞の形の軌跡を視覚化した“正午のアナレンマ”“午前のアナレンマ”“午後のアナレンマ”。
最初の方に展示されている作品の多くを占める地球上の私達から見える宇宙を視覚化した作品は、何れも私達の住む地球の動きに関連して変化して見える宇宙の様子を扱ったものであり、その微妙なずれが生み出す∞等の形の美しい曲線や月に映り込む地球の丸みを帯びた影の美しさ等、私達が目で直接見ることが出来ない自然の造形の素晴らしさを見事に視覚化したもの。
6年掛けて制作された“北緯35度の太陽”に代表される極めて息の長いプロジェクトに思いを馳せる時、私達のちまちました日常生活の時間を遥かに超えた自然界の悠久の流れを感じずにはいられない。
一方これらの自然の時間の流れと地球等の天体の動きをかなり科学的に追い求めることでそこから美的な要素を直接的に引出すと同時に、雄大な自然の摂理を感じさせる作品に対して、もう一つの主要な作品制作の核となっているのが、宇宙科学などの理論から作り上げたロマンチックな想像の世界である。
ビッグバンから始った宇宙がいつか収縮に向い始めるかもしれない…という宇宙科学における論争に触発され、ガラスを宇宙に見立てて吹いて大きく成っていったものを途中から逆転させたらどういう形になるかを視覚化したもの。地球が隕石と同じルーツ=宇宙塵の衝突から生まれたということに着目して私達の身体や廻りを構成する様々な物質と隕石の違いに運命的なものを感じ、それら隕石との出会いがもっとソフトな別の形も有り得たのではないかという想像から、飛行機の翼に乗せて恰もスペースシャトルのオービター(往還機)の様に飛行機の翼に乗せて地上に軟着陸させることを夢見てそれを視覚化した“軟着陸する隕石”シリーズ。夜毎に成長するストロマトライトという石の分析から地球が嘗てはもっと早く自転していたことが判ったという話に触発され、その姿を写した写真に“ストロマトライト:地球はかつて435日だった”という題名を付けることでそのことを想起させようとしたもの。私達が生きるのに必要な酸素がかつては存在せず、植物によってそれが生み出され、やがてそれが気化して大気を構成するようになったという理論に基く酸素大気の誕生する流れをイメージした蒸発する液体酸素の彫刻“時間の矢:酸素−183度”。
巨木の化石からそれが今日まで成長を続けた場合を想像して地図上に描いた“ジュラ紀の巨木”。
これらの作品は何れも私達が実際に見ることも現実のものとして再現実験することも叶わない推測と想像の上に成り立つ現代の宇宙史・科学の理論の持つ独特の文学性を強く意識させ、私達を太古のロマンの世界へと誘う。
それらに対して、より未来的!?でSF的な世界を想像させるのが、宇宙船内での農業をイメージした培養液と人工太陽で野菜を育てるインスタレーション“宇宙農業:野菜の開花2000”や火星のジオラマで想像上の火星の光景を写した“火星:太陽と石”、自作のソーラーカーでアメリカを実際に横断したプロジェクト“ソーラーカーによるアメリカ横断(HAASプロジェクト)”等である。
これらの作品は、何れも未来に向っての想像力の発揮という意味でも、実際のビジュアルの面でも極めてSF的なイメージが強く、かつてSFという言葉が夢を語れた時代を彷彿とさせるが、ソーラーカーを実際に走らせるというプロジェクトを実践して見せることでそこに現実味を与え、単なるフィクションとしてのSFとは一線を画そうとしているが、そのソーラーカーはようやく一人が乗れるだけだし、トラックや先導車がその前後をしっかりと固めて漸く走れているに過ぎないということは、その実用性に関しては甚だ疑問である…という意味で結局それもSFの域を出ているとは云えないだろう。
と云っても、私達に科学が生み出す夢を見させてくれるという意味でのその創造性の豊かさは、実に魅力的ではあるが…
この様に宇宙科学などをベースに想像力豊かな芸術性を発揮して生み出されたこれらの野村仁の作品は、今日別個のものの様に思われがちな芸術と科学・哲学・宗教に跨る意味での宇宙論との繋がりを良い意味で再構築し美術化して見せているのである…ということが改めて認識出来る様に構成されたなかなか魅力的な展覧会である。
だが一方では、この展覧会に於いても中京大学アートギャラリーの時と同じく“ソーラーカーによるアメリカ横断(HAASプロジェクト)”の見せ方に難点が有り、このプロジェクトの持つ魅力を存分に引出せていなかったのは否めない。
走行する様子を映し出す小さなモニターが埋め込まれた展示室中央の白い台の上に実物のソーラーカー置き、その廻りにそのプロジェクトで用いられた炊飯器や食器や予備の部品や参加メンバーの録音された感想の再生装置を配したそのインスタレーションは、ソーラーカー自体が宿命的に力強さを感じさせないビジュアルから来る迫力の無さに引き摺られ、単なる科学館的な物語性に欠ける展示に終ってしまっているからである。
とはいえ、そのことを克服する鍵はこの展示の中に含まれている…ゴーグル状のモニターを通して見るDVDビデオで見られるこのプロジェクトの記録映像は極めて迫力が有り、このプロジェクトの面白みを存分に引出しているのである。
何故こちらをこのインスタレーションのメーンに据えなかったのだろう!?
暗くしたシアター状の部屋を作って大画面でこの映像を流し、そこを出た後でソーラーカーを展示しておけばその感動は一層強まったに違いないのに…作品はプロジェクト化して来ているのに、やはり見せ方は彫刻家の域を脱していないとしか言い様が無い。
全体の構成が野村仁の作品の魅力とそのルーツを見事に引出している展覧会だけに、ここ数年の野村仁のメーンの作品である“HAASプロジェクト”が、展示の仕方の問題でそのメッセージを弱めてしまったのは実に勿体無く思えた。
(10月15日(日)まで)

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「匂いの海・香りの部屋−嗅覚の生理学−徳田憲樹」(フォーラムアートショップ・東京・有楽町)
東京都千代田丸ノ内3‐5‐1東京国際フォーラムBブロック1Fフォーラムアートショップ内。
JR山手線&京浜東北線&地下鉄有楽町線有楽町駅(国際フォーラム口)より徒歩1分、又は、JR京葉線東京駅より国際フォーラム地下連絡口直結。
徳田憲樹展ホームページBYシノバー

熱い夏の野外からフォーラムアートショップのガラスのドアを開けて一歩足を踏み入れると、エアコンの良く冷えた風と共に石鹸の香りに全身が包み込み、一気に爽やかな心地がして来る。
その時には、まだ作品を見る事は出来ないが、店内へ入った瞬間から私達は既に徳田憲樹の作品は始っているのだ。
そんな店内の奥に進、みエキジビットスペースを覗き込むと、何もない白い壁に囲まれた部屋の床がまるで螺鈿細工の様に美しく青白い光を放っているのに目を奪われる。
そして、その光と爽やかな香りに惹き付けられる様に靴を脱ぎ、少し滑る輝く床の上に足を踏み入れ思わず屈み込むと、石鹸の香りは一層強く私達を包む。
そう、その螺鈿細工を思わせる床は薄くスライスされた青い半透明の石鹸なのである。
だからこそ徳田のインスタレーションは、石鹸の爽やかな香りで店内全体を包み込むと同時に、香りに負けない程の爽やかで美しい輝きを持つビジュアルや、靴を脱いで歩き回ること等で味わえるつるっとした触覚など石鹸という素材の質感をフルに活用して私達の五感全てに訴え掛け、爽快な雰囲気で空間全体を覆い尽くしているのである。
言換えるならば、この徳田のインスタレーションは石鹸という素材の持つ香りや美しい色彩やつるっとした感触などの特色を存分に引出すことで、単なるビジュアルイメージのみに留まらず、臭覚や触覚を通じて感じ取るものや石鹸というもの自体が持つ爽やかな印象すらも含むより広義的なイメージを想起させる領域へと美術の範疇を拡張することに成功しているのである。
それ故に、私達見る者は…石鹸の持つ爽やかで美しくて儚いイメージに酔いしれる様にこの糞熱い日本の夏を一瞬でも忘れ、別天地にいる様な清々しい気持ちになれるのだろう。
(9月3日(日)まで)

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「折元立身‐アートママ+ブレッドマン」(原美術館・東京・品川)
〒140-0001 東京都品川区北品川4‐7‐25 TEL 03‐3445‐0651
原美術館ホームページ
JR東海道線&横須賀線&山手線&京浜東北線&京急本線品川駅高輪口より徒歩15分。
品川駅高輪口前の横断歩道を渡ったらその線路沿いの大通りを左手に暫く進み、大きな道路の交わるT字路(新八ツ山交差点)を右折して最初の信号を左折して暫く行った左手の門を入る。

最早表情の変化さえ少なくなってしまった老いぼれたという言葉がしっくり来そうなほどの年老いた老母を日々介護しながら、その老母をモデルに撮影した写真やその日々の生活の画像や音を元に構成された作品“アートママ”。
ヨボヨボになって無表情になってしまった老母の首に古タイヤをネックレスか首輪の様にさせたり、紙で作った以上にでかい靴を履かせて歩き回らせてみたり、蕎麦屋や焼鳥屋の店内や消防署の前で背の低い老母の頭上に古新聞を載せるかの様にしたり、無理やり狭い証明写真の自動機の中で老母と二人で毎日の様に撮影をしてみたり…ともすれば老人虐待でもしてるかの様な写真がズラリと並ぶ。
それだけではなく、皺だらけの母の写真を何度も使ってボロボロになった段ボール箱や団地用の集合郵便受けに貼りつけたり、子供並みに“何やってんだ!”という感じで話しかけてる時の音を流していたり…兎に角老母のヨボヨボの情け無い姿しか見えない作品ばかりなのである。
そんな一見自分の老母を貶めているかの様に思える作品が、折元立身が現在メーンとして制作している“アートママ”というシリーズなのだが、実際に見ているとその中に何処かユーモラスな部分や何とも云えない愛しさがそこはかとなく伝わって来て、思わずほろりとした気持ちにさせられてしまう。
そう、まるで老母を馬鹿にしているかの様に見える辱めるような表層に隠されているのは母親への底知れない愛情であり、その馬鹿にするかの様なやり方は好きな子に照れ隠しに苛める子供や毒蝮三太夫のラジオの公開録音などでの老人たちとの遣り取りに近いものなのである。
言換えるならば、老人がまるで古くなった段ボールやタイヤの様に最早社会の役に立たないものとして切捨ててしまう社会へユーモラスな皮肉を込めて老母と古タイヤや古い段ボール箱と一緒にしたり、背の低さ故に嫌な思いをした母親の昔話に触発されてビッグシューズや母親の頭上に古新聞などを積上げることで背を高くするパフォーマンスを行い、背の低い人間の様に体力的に劣る人間を切捨て様とする社会への皮肉を込めてみたり…と一見貶めるかの様なビジュアルを通して、折元立身は自身の老母に代表される社会的弱者を暖かく見守る愛情を作品化し、高度な産業社会の構築に伴う豊かさの中での急速な高齢化社会のの裏側に生まれた老人を含む弱者切捨ての問題を鋭く抉り出し、私達に突き付けているのである。
そう、そこに写し出されているのは折元の老母との哀しみや苦しみを面白おかしさで包んで精一杯幸せに生きる生活であると同時に、日本を一とする先進各国全てが直面している経済至上主義(=合理主義)としての資本主義社会とある意味では根本的に矛盾する高齢化社会=弱者比率の以上に高い社会に於ける新たな哲学の必要性…つまり老いを含む弱さを愛しむ気持ちの大切さなのである。
そんな折元の他者とりわけ弱者への笑いや毒舌的なユーモアを含んだ愛情が表現されたもう一つの代表作が“ブレッド・マン(パン人間)”というパフォーマンスのシリーズである。
“ワインは私の血であり、パンは私の肉である”と言ってキリストが信者達にパンとワインを分け与えた…という話をモチーフに始められたこのパフォーマンスは、日本における反応よりもむしろ欧米及び発展途上国では極めて鮮烈なイメージを一般の人々に与え、観客から非常に強い反応を引出すという。
その理由は、発展途上国に於いては貧しさから来る食べ物獲得への猛烈な意識が触発されるからだろうし、欧米等ではパンが日本で云うところの“ごはん”に当たる言葉として歴史的に用いられて来たことがそうした強い反応を引き起こしているのは間違いないだろう。
それに比べると、私達日本人はそこそこ豊かになったことで最早食べ物獲得への猛烈な気持ちは消え失せている上、元々パンというものが直接的に食を表すモチーフとして意識されない…それが反応がやや鈍い理由に違いない。
とはいえ、顔全体をフランスパンで覆い尽くして行われるパフォーマンスの完成度の高さと、観客の反応の面白さは伊達では無い。
単なる怪しげな者として扱うのではなく、人に危害を加えない限りあくまでユーモラスな一般市民として正当に扱う欧米諸国の人々の寛容さが滲み出た面白おかしい写真、かと思えば食べ物を奇妙な形で用いる異邦人を面白がりながら、最後は目を輝かせてそれを食べる為に貰って行くネパールのまるで人々に収穫物を分け与える感謝際に集うかの様な写真、かと思えば町中で行われたパン人間の行列を単なるパン屋の宣伝と思ってしまう日本人のおばさん達…そんな様々な反応を撮影した記録写真やビデオを展示した一室は、そこに写された社会の性格を浮き掘りにするインスタレーションとして楽しめる。
だが、やはり出来ればパフォーマンスを身近に見るのが何よりだろう。
顔全体を覆う様にフランスパンを付けた折元立身ともう一人の共演者は、折元が手に持つ小さなベルの叩くチーンという音を合図にゆっくりと歩き回ながら時折周囲にいる観客にパンを分け与えたり、二人で腕を組んだり向かい合ったり…その崇高さとユーモアの入混じったパフォーマンスは、殆ど無言で行われるストイックさも相俟って荘厳な宗教儀式の様な雰囲気すらも醸し出し、パンを分け与えるという行為の持つ宗教的な意味合い=隣人愛の気高さを強く印象付ける見事なパフォーマンス。
そこに表された他者を慈しむ気持ちは、“アートママ”に表された弱い者を愛しむ気持ちと同じく単なる打算を越えた人間の愛情の素晴らしさであると云って過言では無いだろう。
こうした気持ちを皆が持っていれば、幸せな暮らしが出来あがるんだ…折元立身の毒舌的な作品の影にはそんな根底的な優しさが満ちているのである。
(8月27日(日)まで)
(2001年現代グラフィックアートセンター(福島県・須賀川市)でも折元立身展開催予定)

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「マルレーン・ファン・ヴァインハーデン」(ギャラリーサージ・東京・神田)
〒101−0032 東京都千代田区岩本町2−7−13渡辺ビル1F TEL03−3861−2582
ギャラリーサージホームページ
パドルズ2000ホームページ
地下鉄日比谷線小伝馬町駅より徒歩3分、又は、JR山手線&地下鉄銀座線神田駅より徒歩8分。
小伝馬町駅より水天宮通りを秋葉原方向へ行き、コンビニエンスストア“マイチャミー”の角を左折して少し行った左側のビルの1階。

一見インディアン(アメリカの先住民といった方が適切だが…)の飾りを思わせるカラフルな円形のレリーフが、ギャラリーの三方の壁にあるものは恰もトーテムポールの様に縦に連続的に飾られていたり、またあるものはまるでダーツの的の様に飾られていたりする。
だが、良く見るとそこに飾り立てられているのは、魚の形をした弁当の醤油入れ等の日常生活で用いられる様々なプラスチック製の日常雑貨であり、インディアンの飾りを思わせる原初的な華やかさとは裏腹に、極めて現代的で日常的な素材が用いられていることに気付かされる。
そんな現代の私達の身の回りに有り触れた素材が生み出す細部の日常性は、全体を覆う原初的お祭り感溢れる華やぎと好対照を為し、そこにハレとケが日常化した現代社会のハレのケの同一化=日常的お祭り性を浮び上がらせる。
それどころか、このマルレーン・ファン・ヴァインハーデンの作品は、これらの日常雑器がこうして作品化されて保管されて行くという行為を通じて、そこに現代の風俗を記録する民俗学的・考古学的な情報としての側面も併せ持つと同時に、それらが過去に他の場所で収集されたものが飾られたところに加えられて行くという作業を通して、そこに彼女がこれまで辿って来た足跡とその過程で紡ぎ出されて来たネットワークをも想起させるなど、シンプルでプリミティブにすら感じられるビジュアルの中に、かなり重層的な広がりを持った現代社会のネットワーク性・日常性・科学性の融合のイメージすらも盛り込んでいるのである。
それだけに、彼女の作品を見ていると、思わずそこに産業化の進展の伴うお祭り的華やかさを普段の遊びの中に含む現代の生活のハレとケの差異の消失を改めて感じさせられてしまったり、プラスチックの鮮やかでありながら何処か安っぽいイメージの日常雑器が懐かしい安らぎすら感じさせられる様にされている姿に現代のプラスチックに囲まれた生活もそれ程情け無くも無いかもしれないと安堵を感じたり、オランダと日本の日常雑器が連続的に並ぶ辺りに国際的なネットワーク化を感じさせられたり…見る側の私達も否応無しに複雑な思いに駆られざるを得なくさせられてしまう。
そんなマルレーン・ファンヴァインハーデンのインスタレーションは単なる装飾性・懐古性を超え、現代社会への鋭い批評性をも込められた作品として、私達に迫って来ます。
(8月5日(土)まで)

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「井上尚子−マーブルプロジェクト」(川口現代美術館スタジオ・埼玉・蕨)
〒333-0851 埼玉県川口市芝新町7-20ローザ第2ビル TEL 048-261-7878
川口現代美術館スタジオホームページ

色鮮やかなマーブルチョコレートをぶちまけた様なDMの写真を見て、女の子らしい可愛いくてカラフルなインスタレーションを想像して会場へ向う…だが、その予想は見事なまでに覆される。
カーテンで仕切られた真暗なインスタレーションの中へ入ると目に飛び込んで来るビデオ映像はそうしたカラフルで可愛らしいイメージとは程遠いのである。
何しろ、そこでは無数に敷き詰められたカラフルなマーブルチョコレートは、まずトンカチで砕かれて表面の色鮮やかな表層を剥ぎ取られ、たちまちカラフルでポップなイメージを奪われ、その後には手で散々捏ね回されて徐々に汚らしい感じで溶けて行く…というシーンが延々と繰り返し流されているのだから…
そんな井上尚子の映像は表層的な意味でのマーブルチョコレートのイメージを文字通り打ち砕き、逆にマーブルチョコレートの表層のカラフルな色の人工的な側面を強く意識させ、その毒々しさを感じざるを得ない程イメージを激しく変換させてしまう。
だが、良く考えてみればこのビデオの中で繰り返されている行為=砕く→捏ね回しながら体温で溶かす→溶けてドロドロになる…は私達が食べる時に口の中で行っている行為そのものであり、それを外部化して視覚化したに過ぎない。
そうした点を考慮に入れればこの映像は、単なるマーブルチョコレートのイメージの変換(カラフルで可愛らしい→ドロドロとした毒々しいもの)に留まらず、食という行為の持つ意味合い=食べ物はカラフルだろうが可愛かろうが関係無く打ち砕かれドロドロに溶かされて私達の体内に取込まれて行く食物連鎖という言葉を想起させるニュアンスも含んでいると捉える方が適切だろう。
つまり、最早目の前で鶏の首を絞め殺して裁き、料理して平らげるという食物連鎖の過酷さをストレートに見せ付ける行為が日常から消え失せた現代社会を象徴するマーブルチョコレートという人工の極みの食べ物を用いることで、井上は逆説的に“母なる大地”という言葉が本来持つ筈の厳しく悲しい側面=食物連鎖としての他者の抹殺という冷酷さを浮び上がらせようとしている…と思われるのである。
そして、そのことは同時に自分達を守る為に他者を犠牲にするという行為が母親によってしばしば行われているという面も浮き彫りにしてしまうのであるが…
だとすると、母なるものは…恐ろしい側面も持っているものなのだろうか?
(8月6日(日)まで)

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「生川晴子」(ギャラリーアパF2・名古屋・瑞穂)
名古屋市瑞穂区汐路町1−15 TEL 052−842−2500
地下鉄桜通線桜山駅徒歩8分、または、市バス菊園町下車徒歩3分。桜山交差点より南へ一つ目の市立大学病院の信号を左折し、一つ目の信号を右折ししばらく行ったところの左側のコンクリート打ち放しと硝子の双子のビルの一つ。

遊園地の大きなジェットコースターやお祭りなどに用いられる万国旗や雪山等の典型的なイメージを思わせる朧げな絵…そんな印象の残る生川晴子の作品は、克明に描き上げないことによってイメージの抽象化され、見る者が自分達の思い出をその光景に重ね合せて見れる様になっている。
だが、そこに描かれた光景は全く人気が無い上に、やや暗めの悲しげなトーンで覆われており、見る側も遊園地やお祭りなどに行った時の楽しい思い出というよりも、むしろそこから悲しい思い出・切ない思い出を紡ぎ出してしまう。
一緒に行ったが別れた恋人との思い出、亡くなった父母や祖父母との思い出…そんな思い出が走馬灯の様に頭を駆け巡るのだ。
そんな一寸切なく悲しい光景には、人影はや明瞭なコントラストは…不要に違いない。
(8月13日(日)まで)

100/8/2 (水)

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「小林正人」(宮城県美術館・仙台・川内)
〒980‐0861 宮城県仙台市青葉区川内元支倉34‐1 TEL 022‐221‐2111
JR東北新幹線&東北線&仙石線&仙山線&地下鉄仙台駅前バスターミナル16番乗場より市バス“広瀬通一番町経由交通公園行き”で約15分“二高美術館前”バス停下車徒歩1分。
宮城県美術館ホームページ

美術館での初個展であるこの展覧会に於いて小林正人は大学の卒業制作である“天使=絵画”から1997年のベルギーへ移った後の“アンフレームド”までの画家としての拘りを持った活動の全体が判る様な作品を発表し、半回顧的に自身の絵画探求の足跡を見る側に伝えようとしている様に思われる。
卒業制作の“天使=絵画”では、大きなキャンバスに見を捩って横に転がろうとするかの様なイメージの輪郭のみが描かれたドローイングは、荒削りなだけではなくどこか苦しげで窮屈なイメージを受ける。
その理由は、恐らく既に枠に貼られたキャンバスに描くという多くの画家達が当然の様に思っている行為に対して小林が当時抱いていた違和感=キャンバスは張られた時点で既にビジュアル的に自立し絵画して完成している…という感覚から来る枠に閉じ込められた閉塞感に由来するに違いない。
これに対して、その翌年にキャンバスに貼りながら描かれたペインティング“絵画=空”は、青い絵具を用いて手に持って貼る時に手を押しつけながら描くという技法故に出て来た抽象性を持つ濃淡のある青で全面が覆われ、伸びやかで安らぎに満ちた画面を作り上げることに成功している。
そしてこの作品も含め‘80年代に空か霞か光りかを思わせる茫洋とした半抽象性に満ちた作品は、“絵画=空”を含めて何れも青や白といったベースとなる色を中心に他の色を微妙に混ざり合わせて生み出された茫洋とした霞の様な雰囲気の画面と、その中に雲やバケツやリンゴなどの具体的なモチーフを思わせるものを描き込んだり、題名に“絵画=空”“構図法=リンゴ”“画室=キャンバス”等の題名でそれがあくまで絵画であるという主張をすることで絵画性とは何かを探求したりした小林正人の作品の特徴は、近年の日本で流行りの半抽象・半具象の走りの様なイメージを超え、やや抜きん出た魅力を生み出していると云って良さそうである。
しかし、小林正人はそこには留まらず、90年にはその茫漠とした全体のトーン自体は変えなかったものの、それまでの抽象性の強い作風から脱し、青い茫洋とした中に自らのアトリエの中を描いた“空戦”シリーズを発表し、具象性を強めた描き方の追求という第二の段階に入って行く。
薄暗い月明りの射し込むアトリエの中にいる様な雰囲気に描かれた青焼きの様なそのペインティングは、手で直接塗り上げることで生み出された柔かな光を思わせる雰囲気をもった茫漠さは残しながらも、かなり明瞭なイメージを引出すその描き方は、恰もフェルメールと印象派が合さった様な独特の世界を作り出し、絵画の探求に一層の深みを見せ始める。
そうした方向性は92年から始った月を思わせる様な光に満ちた半抽象的な円形の頭を持ち、背景と同系統の色で描かれた身体を持つ人間が横たわっている姿らしきものが描かれた“絵画の仔”シリーズで、再び抽象性を強める方向へ回帰しつつも初期の作品よりも思い切りが良くなったのか色彩も塗り方も強くなり、作品に力強さがみなぎり始める。
青や白等の優しい色彩から離れて黄や赤という強目の色彩を用い始めたのも、そこに塗る絵の具の厚みが増したことも、彼が抽象性と具象性の両者を超克し新たな領域には入れたとの自信が生み出したものに違いない。
そうして自信に基く力強さを得始めた小林正人は94年前後から、キャンバスの貼り方をそれまでのきっちりと貼る普通のやり方から変え、より物質的で力強い作風へと進化し始める。
その結果小林の絵画はキャンバスの木枠にぴったりと嵌りこんだフラットな平面性を離れ、その物理的な押出しの故にまるでアクションペインティングの様な力強い躍動感を表すことにも成功したと云えるだろう。
そして、小林のそうした方向性は95年に東京で開催された“水の波紋”展のキュレーションの為に来日中のヤン・フートの目にとまり、彼が美術館長をしているベルギーの小都市ゲントヘと招かれアトリエを写すことで極限まで突進められることとなった。
ゲントヘ移った‘97年に制作された燃え盛る炎の様な激しさを感じる赤と黒の混ざり合さったキャンバスは、壁すらも離れて床から立ちあがり紅蓮の炎の様な迫力で私達を魅了する。
同年中にはそうした壁に掛るタブロー性からの脱却は一層拍車が掛り、木枠からも外れ始めてしまい、焼け落ちる様な独特の迫力がどんどん増して行く。
そして、遂には・・・美術館のコーナーの部分に二つ壁の間に斜めに立掛けられた作品では、木枠も壊れ落ち床に敷かれた麦藁の上に崩れ落ちた下半分の黒々とした燃え滓の様な部分から烈しく燃える炎の様にのた打ち回りながら立ち上がるかに見える赤黒い厚塗りの絵画は、最早単なる絵画を超えた強烈な迫力に満ち私達に襲い掛かる。
その迫力は彫刻・インスタレーション等の押出しの強い物質性に富んだジャンルの作品を凌駕していると云っても過言ではない程である。
にも関らず、これらの作品に於いても小林正人はあくまで絵画性の探求という方向性に依拠することに拘っており、如何にインスタレーション的なものになろうとも作品の中核はあくまでキャンバスに絵具を塗付けた正面性を明確に持たせる(即ち部屋の中程に自立して置かれる様な彫刻的な作品作りはしない)という姿勢を保ち、あくまで着色されたキャンバスとしての絵画というものの可能性を極限まで追究し続けているといって良いだろうし、その試みはゲントヘの移住で大きく花開いたのは間違いない。
四角い木枠にキャンバスを貼ることとは…というラジカルな絵画への疑問からスタートし、独自の観点で答を見出しながらストイックに絵画の可能性を探求して来た求道者と云える画家・小林正人が、時に呻吟し、時に烈しい情熱に駆られながら作り上げた絵画でありながら絵画を超越した作品が、その探求の過程を含めて見られる見事な展覧会です。
(10月15日(日)まで)
(2000年2月にベルギー・ゲント市立現代美術館でも小林正人展開催予定)

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「太田三郎−存在と日常」(現代グラフィックアートセンター・福島県・須賀川市)
〒962‐0711 福島県須賀川市塩田宮田1  TEL 0248‐79‐4811
E‐mail ccga-info@mail.dnp.co.jp 
現代グラフィックアートセンターホームページ

数年分の一つ一つ異なる日付の消印の押された切手が切手シートの様に再構成されたデイト・スタンプス(5 July 1985 to 12 October 1985,5)、植物の種を和紙に封入して切手状にしたシード・プロジェクト、花火の燃え滓などの色鮮やかな海辺のゴミを並べたプリントを切手状にしたオン・ザ・ビーチ、日記代わりに手帳に張った切手に日々の消印の押して貰ったダイアリー等の切手の作家と云われる太田三郎の代表的なシリーズの作品がささやかな雰囲気を保ちながらも展示室にズラリと並んでいる他に、太田宛に来たDM等に付けられた太田三郎を表すシリアルナンバーを延々と繰り返し並べて便箋・封筒・切手にしたカスタマー・ナンバーシリーズ等日常生活の中で私達が何気無く接しているものを用いて密かに自己を表現した作品ばかりが並ぶ太田三郎の個展。
デイト・スタンプスやダイアリー等の作品が、太田がその時滞在していた地区の最寄の郵便局で押して貰っていたり、毎日その時いた地域で種を採取して和紙で自作の切手を作るシード・プロジェクトも、その採取した場所と日付を表す数字や文字を切手に描かれた文字のスタイルを模して作品の中に持ち込んでいる様に、何れも結果として太田のいた場所を表す日記的な存在証明を表しているのが彼の作品の特色である。
この様にこれらの切手の作品のシリーズは太田自身の日常生活を垣間見させるかの様な日記性を持つことで太田がその日に存在していた場所を表している点では共通しているのだが、郵便局で消印を押して貰う作品が郵便局という公的な組織=他者による存在証明であるのに対して、自作の切手は純粋に自身の記録としての日付と場所=自己による存在証明であるという違いがあり、類似したスタイルの中にその存在証明の主体は全く正反対という大きな落差を内包させている辺りは興味深い。
何しろ高度に組織化された現代社会の中で生きる私達は、否応無しにこの二つの存在証明の衝突に直面し、しばしば他者による存在証明が無いが故に自分が実際に存在していた場所での存在を否定されたり、自分であることが否定されたりしてしまったりするのだから…
そういう意味では、太田の種の切手等の自作の切手は自身にとっては郵便局による消印の入った切手と同等かそれ以上に自分の存在を記すものではありながら、今日の社会に於いては他者による証明無しにはその記録性が否定されてしまう…という側面も持つこの作品を切手というある意味では極めて近代的で組織的で公的なものを模して作るということは如何にも現代的な寓意性に富む。
とりわけ今回初めて発表された新作であるDMに付けられたID番号を用いた作品は、そうした他者による証明を通してしか自己を証明できない場面にしばしば直面させられる今日の社会に於ける存在の意味という側面を更に一歩推し進め、他者による勝手なID番号が果して自己を表し得るのか、また、そうした他者による一方的なIDが自己を表すということ自体に精神的な抵抗感は無いのか…という極めて今日的な問題提議を行っていると云えるだろう。
クレジットカード、銀行のキャッシュカード等のカード類に始って、学籍番号・社会保険番号・各種会員組織に於ける会員番号・社員番号・顧客番号・パスポート番号・免許証番号等々…日常生活の中の各々の場面毎に先方によって一方的に設定された様々なIDを通して私達は自身を証明し、はじめて自分の持つ権利を行使することが出来る今日の私達の日常。
これらの様々なID番号は組織的な第三者による信頼できる証明により、初めて接する見知らぬ者との間でも様々な手続や取引が安心して出来るという面で、広域化・組織化が進んだ今日の社会に於いて不可欠の要素であるのは間違いないだろうが、一方的に番号を付与され、それ無しに自分を証明しその権利を行使できないこと=自己の存在の軽さに対する違和感は否めないだろうし、成りすましによる詐欺等がある現状を考えると、その意味合いすら徹底されたものとは云い難いこと等様々な疑義を抱え込みながらも私達は他者による存在証明無しに自己を証明できない社会に否応無しに突入し、その中で日常生活を営み存在しているのだ…と云うことを示唆するかの様に、淡いブルーでプリントされた顧客番号の列は延々と並べられて儚いイメージを醸し出す。
だが、良く考えてみれば私達が恰も自明にかの様に用いている本名ですら自分自身で付けた訳ではないことを考えれば、こうした他者によるIDの設定そのものはそれ程特異なことでは無いとも云えるし、そのことへ抵抗感を持つことも無いとも云えるかもしれないという考えも太田の作品を見ていると頭を過り、この疑義は単なる今日的な問題のみならず自己とは何か…という根底的な哲学問題にも通じるものとなって、私達を哲学の迷宮へと誘う。
勿論そうした哲学性は、美術の技術を身に着けたいという思いで版画の技法を学習したものの、自分は何を表現したいのか判らないというアイデンティティの問題に直面して作品を作れなくなり、版画=プリントとは何かということへの哲学的な問い掛けにもどることから始めて、日常生活の中に存在するレシートや広告・切手などを含む版という側面を持つ様々なものの収集している内に、文章や物に載せて人々の様々な思いを遠方に届けたり、出した側の存在を証明したりという切手の持つ意味性の深さと密やかな美しさに魅せられ、そこに世の片隅に生きる儚い自己の存在を重ね合せる様に作品作りを始めたという太田三郎の美術作家としての原点にあるものだろうし、だからこそ私達は太田の作品に単なる美しさを超えたものを見出すのだろう。
そう、太田三郎が切手を作品に選んだこと自体が、社会的な日常生活の中で他者から与えられた切手という存在とそれを選んだ自己というものの微妙なバランスの中での出来事であると同時に、単に己の持つ技法のみで作品を作ることが出来なかったが故の哲学的なアイデンティティ追求の果てに徹底的な他者性の中に逆説的にアイデンティティを見出したことであるのだから…
(9月17日(日)まで)
(11月25日(土)〜1月14日(日)まで西宮市大谷記念美術館で「太田三郎展」開催)

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History v1.31 [Shigeto Nakazawa]